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アンパンマン=片岡鶴太郎説

宝石業界にはビーフブラッドよりもピジョンブラッドのほうが上という価値観がある。らしい。牛血と鳩血。どちらもルビーの色彩を表すための語彙である。

これに私は「意義あり」と思う。
この場合のビーフブラッドとは、食肉用に生物にとって優れているとは言えない環境で成長ホルモンを投与され大量生産され機械的に処理(殺害)された牛肉が、冷凍処理をされて流通を経たのちに、慌しく人が往来するキッチンに常温放置されて流れ出したドリップの、赤黒く濁った人類の業を表す地獄の贄色のことを言っているのだと思う。一方で「いい」とされるピジョンブラッドは、ハイクラスの野生の鳩を貴族的遊侠の文脈で狩猟し高級レストランに従事する専門家が丁寧に解体したものであって、その色味はバレンシアオレンジのような、特色オレンジのインクのような爽やかな色彩を含んだ濁りのない澄んだものである。

宝石業界は前者を「下卑たもの」「価値が低くヘルシーではないもの」「俗物」と評価し、後者を「ヘルシーで爽やか」「世俗的な業に汚染されていない」「ピュアでより純粋なもの」と位置付けようとしている。試み自体が破綻している。

そもそも、よさを「血」で例える感性がヤバいから


ほかの生きものの血の色で形容したものをよろこんで胸元や指先にぶら下げているセンス。どうなんだ。どうなっているんだ。悪魔じみている。というより悪魔そのもの。そのものの所業。「悪魔」が比喩になっていない。
もしこれを「鬼!」と形容した場合には、むしろ鬼側の風評被害が懸念されるレベルの話(鬼は見た目が人間からするとヤバいだけでやっていることはそこまでやばくないケースが多い)。やべーし狂っている。

いや、別に、構わない。というか、わかる。美しさや希少性についてはそう言われて十分理解できる。どこかから何かを奪ってそうなっているはずのものだから。できるが、一旦「血」で例えるという大胆な直接表現を見せつけておきながら、その価値基準の中で「穢れていなさ」「純粋さ」をより尊いものとして価値づけている精神性がかなりいかれているなと思う。いいとかわるいとかの話ではなくてイカれている。悪魔の一歩先を言っている。悪魔界のクロネコヤマト、悪魔界の「一歩前へ!」が体現されている。それでいいのか。いいのである。というか、そうだからこそいいのだということになっている。徹底された残酷には否定の余地がない(批判の余地は当然あるが)。形がどうあれ、否定できないものは人を惹きつけてしまう。

テレビアニメや特撮番組にわかりやすく配置される「わるもの」たとえばバイキンマンのような「わるさ」にホッコリすることがしばしばある。わるものがドクロの形のステッキを持って、悪魔城みたいなお屋敷に住み、煙突からは毒々しい色の煙がでて「イーヒッヒッ」と笑ってくれていたらなおうれしい。良心的だなあと思う。わるものをやっているやつらは気苦労が多いだろう。環境の中で、少し冷静にならざるを得ない立場のものは殴られやすい。

現実的な極悪人は誰がどう見ても善良に見えるファッションを心がけていることが大半だ。私はこれを「片岡鶴太郎理論」と呼んでいる。かつて「あたおか鶴太郎」というネットスラングが流行したが、あたおか鶴太郎よりも片岡鶴太郎の方が〈純度〉は高い。なぜならマジの渦中にいる人は自称しないから。そういった尺度で考えた場合、バイキンマンはあたおか鶴太郎であると言える。同じ尺度でアンパンマンは片岡鶴太郎であるとも言える。アンパンマンは片岡鶴太郎(比喩)なので「自分の顔を食べろ」などの主張をする。これは他者への極限の奉仕であり、そこにある無二の慈悲は絶対的に否定できないが、同時に狂いきっているとも言える。無二の慈悲が通底しているせいで狂いきりの一切を否定できないところがまた凄みを放っている。悪魔は人間のゆるキャラであって、自らがゆるい自覚もある。だから堂々とツノやキバを丸出しにしているのだ。昔、局所的に流行した「ちょいワルオヤジ」というファッションカテゴリーにも同様のものを感じた。ワルいことをしている自覚はある。その時点で、所業に無自覚の人物よりはどうしても良心的な印象になってしまうというか。

当時ちょいワルオヤジ界の山田勝己(代表人物)と目されていたパンツェッタ・ジローラモ氏がテレビに出演した際にAKB48のメンバー数人の中から誰が好みですかと質問をされて「娘だったら嬉しいですね」と紳士の対応をした、という逸話があるが、ベースの部分ではワルいことをやっている自覚がある(人類は全員そうだが)発想だなと思う。パパ活をやっている人(買う側)は気持ちの上ではアンパンマン的マインドでやっているのではないか。オヤジばかりを批判したいわけではないのだが、パパ活の場合、売っている側はあたおか鶴太郎的というか、ちょいワル若者的な感性でやっている点も構図として珍奇だなと思う。それは尽きることなく繰り返される。当初から人間は狂いきっている。マシになり続けようとする態度の中にしか「マシ」がない。

たまに、朝目が覚めても家の電気をつけられなくなってしまうことがある。暗いまま、カーテン越しのしらじらしい薄灯りのなかで歯を磨く。テレビをつけてみる。
理由はわからない。なんでだろうか。ひとことで言ってしまえば、正気で直視するには世の中があらかじめ狂いすぎている事実に耐えられなくなっている、ということになるのだと思う。説明的に説明をしたところでなんらわかった感じにはならないのだが、そうやってうすらあかるい中でのぞきこむテレビジョンは、電子バーに表示される無数の文字列は。

インターネットは毒だなと思う。テレビの中で明滅し、うまいものをうまいという人々を人工的な被膜で覆いまやかしの繁栄を恒久的に口約束して見せる儚いが強靭な感性も、ある尺度では毒電波を放っているように見える。しかし、やっている人間自体が毒そのものであるだけで、メディアの形式に毒性が含まれているわけではない。毒性生物が自家中毒に陥らないよう環境における毒の希釈方法にそれぞれのメソッドがあるだけで。

宝石を熱心に進める通販番組では出演者が1カラットの宝石を見て、

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