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味の自己肯定感

どんな服でも本人が自信満々に堂々と着ているとオシャレに見える(ことがある)。美味しいとされているものを味わうときも「今自分は根拠がわからない味の暴論をがんばって信じているだけなんじゃないか」と思えることがある。

「キャビアがスーパーでひと瓶30円で売っていたら誰も食べない」

と言っている人がいた。言われてみると、なんだかそうなのかもしれない。なんでしょう。

なにがよかったんだ。キャビア。口内というステージで様々なダシというか、コンブや海老の殻から抽出されたような旨味と塩味がミラーボール状に反射する一点を移し替えながら光っているが、にぎやかしが大仰なわりに、誰も踊っていない。がらんどうのステージ。もしかしたら、いまここでステージに立たされているのは私自身なのかもしれない。傍観することを許されないまま、一人ステージに立たされている。ステージの前に20人ほど座ったらもう満席になってしまう程度のささやかなホールがある。全体は閑散としているが、数人の客が何を期待するでもなくそこにいる。地下の湿っぽい空気の中に消臭剤とベルベットの匂いがくすぶって、長年垂れ下がったままの舞台装置の暗幕から湧き上がってくる埃が照明を反射して、鬱積した陰鬱な状況になにかしらのカンフル剤を注入せよと訴えかけてきているようである。私はなにかしなければならないのではないか。でも、踊り方がわからない。誰も教えてくれない。わずかに、両手に持ったマラカスがむなしく、乾燥した音を立てる。パーティーというには、セルフサービスの側面が強すぎるのではないか。思い返すと、なんだかそんな感じがしてきた。

この、ステージ上で「踊り」という現象がもうすでに発生しているのに、踊る主体が自分であってもよいのか、踊りながら戸惑うしかない感覚は自分がビンゴゲームをやっているときの心境に似ているなと思う。

ビンゴゲームをやっている最中に「いまここにいる自分が、“ビンゴゲームを楽しんでいる人”として存在するのを辞めたら棒立ちして紙に穴を開けているだけの人になってしまうのではないか」という不安を感じることがある。ビンゴゲームが盛り上がるためには、参加者が各自自助努力で盛り上がるしかないのに、肝心のビンゴ側(ゲームとして用意されたフォーマットとしてのビンゴの有り様)は、参加者が自助努力を放棄する可能性を歯牙にもかけていない傲慢さがあるように思われてならない。ゲームとして内容を面白くする努力が放棄されたまま、演出面の瑣末な工夫(数字の抽選に使われる機材をデコレーションするなど)だけがなされている。実質的にやっていることはエンジョイの禅問答(エンジョイすべき時空間であるからエンジョイをするのだという態度に雑念を持ち込まないようにする精神活動)に近いのではないか。

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