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「ありのまま」でいいのかよくないのか問題

親切な人が

「ありのままでいいんだよ」

と言ってくれることがある。

久々にこれを言われて、「おお」となった。
正確にはもっとこう、日本語では表現できないニュアンスで

「oh.…」

といった感じになる。迷惑ではない。し、特に不愉快でもないが、どうリアクションしたらいいのかわからない。この「おお」は初対面の人に不謹慎なギャグを言われて、どこまでウケていいのか判断がつかないので、なんとなく感心しているような雰囲気になってしまうときの「おお」と似ている。

「ありのままでいいんだよ」と言われると、私の場合は満面の笑みを浮かべてしまう。嬉しくて満面の笑みを浮かべているのではなくて、むしろ、困惑のあまりに苦笑いを浮かべたいのだが、親切のつもりでいいことを言ってくれている人に対して苦笑いを浮かべるわけにもいかないから、やむを得ず満面の苦笑いを浮かべているのである。本当はシンプルな満面の笑みを浮かべたいのだが、自然に浮かんでこないものは仕方がない。露骨な苦笑いよりも満面の苦笑いの方がまだマシである。もしかしたら、笑いながら怒っている人のような、相反する感情を同時に表出されているせいでむしろ奥行きがあって怖い、印象になっているのかもしれないが。
こうなってしまうと、大抵の場合はなんだかよくわかんないやつだなーという顔をされる。それでもなんだか難しいヤツだなー、と思われるよりはまだマシなんじゃないか。と思う。無邪気にいいことを言われると、ありがたいけれどもつかれる。

「ありのままでいいんだよ」と言われても喜べないのは、単純に「ありのままではよくない」からである。ハッキリ言うと、自分のような人間がありのまま行った場合社会的に死ぬ。
本当にありのままでいい場合、たとえば取引先に電話をかけて、「担当にお繋ぎしますので少々お待ちください」と言われた場合には

「ギィヤアーーーーーーーーッ!!!!!!!」

と一旦叫びたい。許されるのであれば。

なんで一旦叫びたいのかというと、ただでさえ電話という異なる時空間(二つの生活空間にそれぞれの時間が流れが存在するので、空間だけではなく時間も別のものだと言える)を繋げる装置が機能していて情緒が不安定になるのに、異なる時空間が繋がりっぱなしになったまま何の役割のない「無」の時間(実際には担当者を待っているのだから無ではないのだが)が発生し、生身の人間である私が異なる時空間に単身さらされることによって、「常に変質し続けているのに、同時に変質しない、固定化されたもののフリをし続けている自分」という生身の空々しさ、捉えどころのなさ、定義のできなさに直面してしまい、パニックになってしまうからだ。そんなこと、頭では理解しているけど、「ありのまま」で心までは付いてきてくれない。だから、できれば一回腹の底から大声で叫ぶことでパニックを発散してから重要な話ができればいいのだが、と思う。ただ、このような「ありのまま」をむき出しにすると突然叫ぶ狂人になってしまうので、なんとかして叫ばずに耐えている。呼び出し音の、簡素なメヌエットに意識を集中させる。ホワイトノイズとオフィスの騒音がうっすら聞こえる。音楽室に飾ってあった偉大な作曲家の肖像を思い浮かべる。ファミコンゲーム『FC大バッハ』があるとして、BGMとしてこの保留音がずっと流れ続けていると考える。かなりのクソゲーであろう。カートリッジのイラストは藤子・F・不二雄のパロディ調でうさんくさい。デフォルメされた巨大なJ.Sバッハの肖像が、方々の貴族から送られてきたチョコレートの山を超え、口からはレーザービームを出す。

「水野さん? お待たせしました。お電話代わりましたが」

なんとか、叫ばずに済んだようだ。

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