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タイムパフォーマンスという信仰はなんのためにあるのか

・おじさんが居座ってるけど大丈夫

 朝目が覚める直前に、絶対に起きたくないという気持ちが猛烈に高まったので

「あえて覚醒に気がついていないフリをしよう」

と思って覚醒をシカトしていたら、よこしまながんばりへの天罰かもしれない。おじさんの顔が私の瞼と眼球の間の空間に現れた。現れたというか、記憶の断片がフラッシュバックしているだけなんだけど、むやみに実在感がある。おじさんの顔(頭~肘下くらいまで)は、私が覚醒を拒んでいるせいで生じた湯船みたいな空間に居座るので困った。居座るなよ。

 おじさんは知っている人物ではなかったが、かといって全くの初見でもない。誰ですか。おじさんは「六本木にいる経営者のおじさん」と「鎌倉にいる趣味を愉しむスポーティー富裕層のおじさん」のちょうど中間っぽい、雰囲気いいポロシャツを着ている。かなりできそうなおじさんだ。実際にかなりできるのだろうし、自ずからできそうな感じを出してもいる。出しつつ、ポロシャツの色味をパステルにするなど威圧しすぎない工夫もある。多少イキらせて頂いている己への客観性があり、配慮、心遣いの精神まで感じられる。自己理解に精密さがある。そんな人、周囲には徹底的にいないから、ややジックリと見てしまう。こういう方が真の充実者と言えるのかもしれない。感心をしていたら、さっきは困っていたが案外大丈夫になってきた。私が大丈夫になった一方、おじさんは複雑な表情をしている。リラックスしながら決断している。

その表情が記憶中枢を刺した。決意が固いのに平然としている。困りながら困っていない。わかった。急にわかった。この人物は、年末にカフェで人と話しているとき、数分だけ隣に座っていたおじさんだ。


 なぜ数分だけ隣席にいたのか。


 それは、私と同席していた人物の会話があまりにも最悪の内容だったからだと思う。
どう最悪だったのか。具体的には「ビッグダディ(テレビ朝日のドキュメンタリー番組で長年に渡り取材を受けた人物で計二十名の実子がいる)の性欲がオノマトペで表現された場合、どのようなものが最適か」という話をしていた。「最悪」に異論は出ないだろう。一方、隣席のおじさんは、感じのいいデートをしていた。まずはお互いのことを知りましょう、くらいの段階のムードであった。デート相手は同世代の女性で、落ち着いているが溌剌とした雰囲気もあり、思い返すと、彼女もまた真の充実者と言えそうなムードを放っていた。おじさんは、「ビッグダディの性欲」というフレーズを耳にして即座に顔色を変え、しかし表面的には極めて穏やかに別の席に女性を案内しつつ去った。私がまず驚いたのは決断のスピード。あのような即断即決は私には不可能である。しかも、隣席の最悪の会話に対して「面白いからもう少し聞きたい」などの未練の一切を出さず、適切な判断の主体に徹しながらも自分の反応が影響を与えないように見られるものとしての態度を堅持している。常人というか私は、まず内容に意識を絡めとられてしまい、判断に徹することができない。意識を切り替えて判断しようにも今度はもつれた感情にとらわれる。すごい。
 そんなことを考えてもしょーがないのに考えてしまう。自分はどうか。30年あれば独裁国家政権が樹立して崩壊するくらいのことが起こるが、30年後の自分がああなっているとはなにがなんでも思えない。最近の小学生は大谷翔平の夢実現マップを見せられてこんな気持ちになっているのかもしれない。
というか、自分のみならず今の20〜30代が30年後にこうなっていく未来はあんまりないんじゃないか。そのルートを断ち切っている主原因はなんなのか。考えると、一つには「タイパ」という発想がごく普通にあり得るものとして流通している空気感、があると思う。

タイパとは、私が思うに信仰に近い。

・なぜ「タイパ」への賛否がわかれるのか

「タイパ」という言い回しはなにかと物議をかもす。すんなりと受け入れている人とそうでない人の間には温度差がある。どうしてなのかというと、タイムパフォーマンスという考え方はライフハック的なものとして扱われているが、実際には信仰に近いものとして流通しているからじゃないだろうか。

信仰一般の特徴として、
それを信仰する集団の中で大切にされる教義の内容自体にはそこまで深い意味はなく、むしろ、あまり意味のない教義の内容に従うことで形成される「世界観」が重要という風潮がある。あまり意味のない教義によって形成される世界観とは、
例えば

・イヤな人はちゃんと死後罰がある
・いい人はちゃんと死後優遇される
・徳を積んだ場合、それはしっかりカウントされて来世に反映される
・徳のマイルを貯めるといずれは最終局面に到達できる
・人々の行動はゲームマスター的な人が常に観測しているので罪は全バレしているが、自己申告すればセーフの扱いになる
・自然災害は全て天罰なので、背後には警告の意図がある(だから無意味な被害ではない)

などがある。
ここで重要なのは、実際に救われるかどうかではなく、ある集団の中で日々繰り返される営みの中に描き出される「世界観」の中で人は生活実感を抱くことができる、という点だ。これによって不条理そのものである現実を一定の納得感、公平性のあるものと(仮想上で)解釈して生きることができる。

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