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「娘がいて良かったわぁ❤︎」にモヤる問題

なぜ「そうだね」と素直に言えないのか?


例えば、母と映画やら展覧会を観に行って、お茶してる時。

例えば、母の手紙やら習い事のレポートを添削してあげた時。

はたまた、実家にお土産や預かり物を取りに行ったついでに、母娘でまったりおしゃべりなんぞしてる時。
来るぞくるぞと言う予感に違うことなく、それは母の口から飛び出てくる。

「あー幸せ!」
「娘がいて、ホントに良かったわぁ〜」

このフレーズを聞くたび、モヤッとする。
もっと言うと、そのモヤッのなかに12%くらい、もっと刺々しい「イラッ」とした気分も含まれてるような。
聞いた瞬間に、ウグッと喉が詰まってしまい、いつも返事ができずに無視してしまう。

自分でもそれが不思議だし、何なら申し訳ないと思う。

私の母はいわゆる毒親的要素は薄く、70代後半にしては理性的で「話せばわかる」タイプだ。
40代で離婚後、長く仕事を続けてきただけあってコミュ力もたくましさもあり、何より掛け値なしに愛情深い。

子供の立場から見るに、やっていきやすい親だと思う。

じゃあ何ゆえに、「娘がいるって良いわぁ❤︎」発言が、かくも私の気に触るのか?
良い機会なので(→要するにヒマ)、本気で考えてみた。

「親子だから」って理由だけで会ってるわけじゃないのに


極端な例だが、母が品性下劣で一緒にいても何ひとつ得るものもなく、逆にいればいるだけ気が滅入るだけのクソ意地悪い老婆だったとしよう。

いくら親だからって、絶対ランチなんてしないと思う。
展覧会やら映画なんて、もってのほか。

大げさかも知れないが、大人同士が自発的かつ持続的に会い続けるのって、「あなたの人間性や生き方が好き、あなたが同じ時代に地球上に生きてると思うだけで、私には励みになる」って意味だと思ってる。
自分の好きな人たちにも、そう感じてもらえるような自分でいたい。

友人たちとは、いわば互いにその無意識の「人格審査」を通過した同士である。そして、母に定期的に会ったり話したりしたくなるのも、私にとってはそちらの意味がメイン。

もちろん少しは安否確認やら家族としての義務感はあるけど、何より彼女の考え方やら、ものごとの決断の仕方が好きだし、自分の人生の参考になるからなのだ。

「血縁だから」「母娘だから」と言う、言わば義務的な理由だけじゃないのになぁという反感を感じる。

娘と息子への、期待値の温度差

あとは、「息子とじゃ、こんなリラックストークはできないもんね」「近い距離で世話したり遊んでくれるのは、女である娘だからだもんね」と言うニュアンスにもイラっとくる。

「娘がいて良かったわぁ〜→男の子しかいない友達が、いっつも羨ましがってるもん」と母のセリフが続く場合もあるので、この見方は正しいはずだ。

私にはひとつ違いの兄がいる。兄と母も、ごくたまにはご飯に行ったりしてるのだが、母はたいていグッタリ気疲れして帰ってきている。

ついでに言うと、ちょっとした頼み事やら病院への付き添いに声をかけられるのも、決まって私だ。

「男の子は、立ててあげなきゃいけない。仕事も大変だし」
「娘は同じ女だから気をつかわなくてもいい、何なら気安く使いだてしてもいい」と言うホンネをうっすら感じてしまうのは、ひがみなのかなぁ。
私も兄も、仕事して自立している意味では同等なんだけど。

昭和の時代にしては珍しく、男女の区別をほとんどつけず我々兄妹を育ててくれた母だが、やはりそこに世代の限界のようなものを感じてしまう。

サービスとしての「娘」


高齢になるにつれ、自分の未来や老後の孤独への不安が膨らみ、娘のありがたみが増すと言うのはよく聞く話だ。
40くらいまでは、とにかく結婚しろしろ言ってた親も「そばにいて世話をしてくれ」「実の娘がいちばん」と頼って来るようになる…独身やバツイチの友人たちは口を揃えて言う。

いわば、「サービスとしての娘」の需要が、年取ると一気に高まるみたいだ。

※深刻で急を要する「介護」「看病」の問題は、さらなる知識と経験がなければとても語れない問題だと思うので、ここではあくまでその前段階の「老衰」ぐらいのレベルの話です。

その心細い気持ちは、こちらも年取ってきた今、すごーくわかるのだが…
ハイハイと付き合ってあげられるかというと、また別。

親とは別の人生を歩んでいる、という意味では息子も娘も変わりないはずだ。女なら誰しも他者のお世話が大好きっていう属性が備わっているわけじゃないし。
息子には固有の個性や人格は認めても、娘には「世話好きで、優しく寄り添ってくれる」一律なキャラクターを求めるのって、どうなん…?と、そういう話を聞くたび思う。

もちろん、母たちとて、我々が子供の時、フルパワーで「お母さん」を演じてくれていたのだ。
その原動力の大部分は愛情だったにせよ、義務感やサービス精神でどうにか補っていたことも、確実にあったはずなのである。

こちらもお返しに「良い娘」を演じてあげても、バチは当たらないのかもしれない。世の中がそうやって回ってきたのも事実なのだ、けれど。

母がもっともっと弱ってきたときに、それは取っておきたい、と意固地な娘は思う。

母よ、もっと自分の人生に自信を持ってくれ。


私としては、「いち個人としての私」のままで、母と助けたり助けられたりできたらな、と思う。
「娘(=女)」という属性とか、「育ててもらった恩義」ていう手間と愛情の回収作業みたいなものに巻き取られたくない。

「この人が好きだから会うし、話すし、困ってるなら助ける」
「それが、たまたま親ってだけ」

そのことに、母がもっと自信を持ってくれたらいいのにと思う。

「人として、好きだから」

「血が繋がった親子だから」「同性同士だから」なんて、どうでもいい(失礼)理由より。

はかなそうに見えて、それはずっと確かなことなんじゃないだろうか。

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