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それぞれのかたち

私にとって愛は行動のことで、強い思いは口だけでなく態度や行動で示すべきで、相手に伝わらなければ伝えていないのと同じで、伝えていなければそもそも感じていないことと同じで。愛は行動で、おまえが好きだと伝える努力のことだ。
ふと気になって彼氏に聞いた。私の中では愛は行動のことなんだけど、あなたの中ではどういうことになってるの。ごめんもありがとうも嬉しいも楽しいも好きもろくに言わないあなたにとって、何が愛なのか知りたかった。なぜ私と一緒にいるのか教えてほしい。「フィーリングかね」。これまた適当っつーか、なんつーか。「どういうこと?」「フィーリングが合うな、居心地が良いな、と感じる相手に対して愛を感じるということ?」「そうね」その相手にはどのようにして愛を伝えるのか、あなたにとっての愛情表現は何なのかを聞いているんだけどな。
仕方ないので彼の行動やこれまでの発言から想像することにした。彼は人に対して自らすすんで行動をとることはまずない。友人にも自分から連絡をとったり、遊びに誘ったりしない。しかし、相手を好きなことには変わりないらしい。なので、誘われたら応じる。私も、会おうと誘ったり、電話をかけてもいいか聞いてみて、断られたことがない。あちらから提案してくることもないが。というと、彼の愛は「時間の共有を惜しまない」になるのか、と思ったが、それだと積極的なニュアンスが含まれる気がする。好きな相手に誘われたら何が何でも予定を空けるとか、たくさん会えるなら会えるだけ喜びを感じるとか、そういう熱量は決してなくて、彼のはどこまでも受動的だ。「時間の共有に応じる」とか「拒まない」程度だな、と思った。

だけど、「時間の共有に応じる/拒まない」が彼の愛だとして、それってわりとハードル低くないか?彼女じゃなくても、友達じゃなくても、特別大切な存在じゃなくても、なんなら相手を好きじゃなくても、それってできてしまうことなんじゃないか?ていうか、よっぽど嫌いな相手でない限り、彼は誰に対しても大抵その態度じゃないか?「嫌い」だけは明確だけど、それ以外はだいたい同じに見える。「好き」が薄い人なんだと思う。心が動く、みたいなことがほとんどないと言うから、そういう情動に駆られないのだと思う。それなら、友達と彼女の違いは?なぜ私と付き合っているの、付き合おっかって言ったの。
友情と恋愛の違いってなに?いつから気になってたの?どこを好きになったの?聞いてみたけど、「そういうのは言葉にするもんじゃないの」「いつかね」で終わった。今を大切にできないやつがいつかを約束なんてできるもんか。それって言葉にする以外で努力をしてる人だけが許されるセリフなのに、実際は面倒くさがりの常套文句だよな。分からないなら聞きゃあいいと思ったのに。おまえにとって私って何なんだよ。クリスマスの「付き合おっか」が、あれだけが、おまえの最大の努力だったのか。これからは努力しないつもりかよ。

当たり前のように家庭を築くことを目指す世間には馴染めない気がして、本当は馴染みたくて、その幸せを知りたいし、気持ちを知りたいけど、でもみんながそうしているから仲間外れになりたくなくて焦っているだけのような気もして、みんなと同じことしたって満たされるわけじゃないとも知っていて、特に私はそういう性質で、適齢期ゆえに、最近はそればかり考えてグルグルしている。子供が産みたいから結婚したいなら、そうでなければ結婚しなくていいのか。そのグルグルを彼に話すと、どうして今私にそういう悩みが起こっているのかを、社会の仕組みとか日本の制度とか親世代の価値観とか時代背景とかから説明した。家族どうしの精神的なつながりが強い家庭に育った友人は子供を欲しがる傾向にあることも。私の感情に寄り添うことはない。けど、ある意味渡り合えている。死ぬほど淡々としている。すげーなと思う。今年32になる男が、28になる付き合ってる女から、結婚とか子供ほしいとかよく分からない、それを当たり前に目指すのも、そうでないと不幸と思われるのも苦しい、とか溢されて、慰めるでもなく、ショックを受けるでもなく、平然としているどころかペラペラと社会をディスる。付き合っていて思うけど、この人、人のせいにする天才だなと思う。全部が全部間違ってはいないんだけど。自分のせいにしてるとこ、自分を責めてるとこ、見たことない。だから悩まないんだなと思う。私は自分がおかしいのかもと悩んでばかりなのに。私は相当厄介だから、死ぬほど愛情深い人か、死ぬほど冷静な人(一人で完成されている人)か、そのどちらかじゃないと、上手くやれないだろうなと改めて思った。そんで、今はたまたま、その後者にあたるひとと一緒にいる。大概ひねくれてるよな。私も、私を選ぶ人も。

「俺の愛はフィーリング」と抜かした彼に、「フィーリングが合う人、つまり居心地の良い人、一緒にいて落ち着く人に愛を感じて、そういう相手とは一緒にいる(時間の共有に応じる)っていうのがあなたの愛ってこと?」と聞くと「そうねえ」と言うから、「じゃあ私にも居心地いいと思ってるってこと?一緒にいて落ち着くってこと?」と畳み掛けると、「落ち着くで」と似非の関西弁。そして、「(私の精神状態が)安定してる時は」と補足した。不安定な私は嫌いだとはっきり言われた瞬間だった。それが、どんな私でも好きだとか言われるより本当だなと思って、よっぽど信じられるなと思って、可笑しかった。私も、人のせいにばっかしてイライラしてるあんたがめちゃくちゃ嫌いだよ。同じだね。

人が誰かに与えんとする愛のかたちは、その人自身が欲している愛のかたちのはずだと思っていたけど、私が欲している愛のかたちと、彼が私に与えているつもりの愛のかたち、私が確かに彼から与えられていると感じる愛のかたちは、どれも違う。私は「行動」(思いを態度で伝える努力)を愛だと思っているが、彼にとっては「時間の共有に応じる/拒まない」が愛。だけど実際に私が受け取っているのは「信頼に基づく自由」。それは、私が親から与えられなかったもの。私の思う「愛する」とは違うかたちだけど、確かにずっと欲していたもの。愛と言えるのか分からないけど、彼にとっては取るに足らないことかもしれないけど、私にとってはとても大事なこと。有難いこと。他にもある。粗探しは得意だけど、いいとこ見つけるのは苦手だ。与えてもらえないものを欲しがって怒ったり泣いたり繰り返しているけど、与えてもらっているものだって確かにあるんだよな。だから許すとは言ってないけど。

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