Naoto Nishiwaki

物書き。ライフワーク:沖縄。2003〜2014年沖縄にいました。沖縄オルタナティブメデ…

Naoto Nishiwaki

物書き。ライフワーク:沖縄。2003〜2014年沖縄にいました。沖縄オルタナティブメディア(OAM)という市民メディアをやっていました。その後東京でサバイバルしています。ブログは最近では本と映画のレビューをちょびっと。https://earthcooler.ti-da.net/

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『国道3号線 抵抗の民衆史』森 元斎

 九州は日本の急速な近代化をまともに被った地であるがゆえに、民衆による抵抗の蓄積も豊饒であると著者は見立てる。たとえば筑豊の炭鉱では労働問題が、水俣病では環境問題が「問題」として露呈した。本書では国道3号線を北上し、その軌跡をたどる。西南戦争から山鹿コミューン(第一章)、水俣病(第二章)、筑豊炭鉱とサークル村(第三章)、北九州の米騒動(第四章)というように。  抵抗の根拠地としての「村」をどう捉えるか。第三章では谷川雁と石牟礼道子の「村」の差異に注目する。サークル村のリーダ

    • 『黒い皮膚・白い仮面』フランツ・ファノン

       白人から疎外されるとき、黒人は内面において自己を疎外する。フランス領マルチニック島に生まれた著者の(自己)批判は徹底している。植民地的構造によって強いられたその暴力について、6章〈ニグロと精神病理学〉では精神科医として分析を加える。  西洋の白人文化から生まれた精神分析学は病的原因を家庭環境に求めるが、黒人の子供は正常な家庭内で成長しても、その後白人世界に接触すれば異常になる。著者の出自であるアンティル諸島では、黒人の子供はフランス人として、黒人差別に染まった白人文化のコ

      • 『レンブラントの帽子』バーナード・マラマッド

         表題作は短編の名手の代表作として定評があるばかりでなく、巻末エッセイを綴る荒川洋治をして「二〇世紀アメリカ文学のなかでも屈指の短編であろう」と激賞されている。ここではその構築性について思うところを述べたい。  『レンブラントの帽子』はニューヨークの美術学校を舞台に、彫刻家のルービンと美術史家のアーキンのあいだに生じた心理的葛藤と摩擦が三人称によって書かれている。ルービンの被る帽子をアーキンがレンブラントの帽子に例えて評したことが二人の決定的な対立項として設定される。具体的

        • 『女性・ネイティヴ・他者 ポストコロニアリズムとフェミニズム』トリン・T・ミンハ

           表題のひとつひとつの概念について、このように詩的な文体で書かれた書を読んだことがない。それほど新鮮な読書体験であった。という凡庸な感想に私が用いる「詩的」という言葉は女性的、感性的などと親和的であり、それらへの二項対立として男性的、論理的、理性的などがあらかじめ併せもたれていることを、書いた直後の私は否定できない。  このように根深い「男根主義」に対して、「思考は脳という特殊な器官の産物であり、感情は心の産物だと考えるのはこじつけだ」(55ページ)と批判するミンハは、「肉

        『国道3号線 抵抗の民衆史』森 元斎

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          『コンラッド短篇集』ジョウゼフ・コンラッド

           エドワード・サイードによって「故国喪失者(エグザイル)についてこれまで書かれた、おそらく最も妥協なき表象であろう」(『故国喪失についての省察』)と評された『エイミー・フォスター』を含む6篇。登場人物は皆、異国の地で孤独、無理解、敵意にさらされ、不幸な結末を迎える。その舞台も、イギリスの僻村、ロンドン、パリ、ナポリ、南米の小島、革命戦争下のチリと幅広く、帝国主義と資本主義が拡張する領野をその範囲とする。  ポーランド生まれでロシアの流刑地で育ち、フランス船に乗り込んで作家とな

          『コンラッド短篇集』ジョウゼフ・コンラッド

          『故国喪失についての省察 2』より〈27 歴史、文学、地理〉エドワード・W・サイード

           歴史と文学は人文学として親和性があるがゆえに、時にたやすく同じ枠にくくられることがある。若きサイードがハーヴァード大学で「歴史と文学」というコースの準講師を務めた冒頭のエピソードも然り。サイードは表象文化論の古典ともいえるアウエルバッハの『ミメーシス』を紐解き、「時間性を、歴史的現実を把握するための理解方法であると同時に、過去、現在、未来にわたる人間経験の収納庫とみなすという伝統」において、歴史と文学が照応する方法論を見出す(187ページ)。  時間性ということでアウエル

          『故国喪失についての省察 2』より〈27 歴史、文学、地理〉エドワード・W・サイード

          『故国喪失についての省察 1』より〈12 故国喪失についての省察〉エドワード・W・サイード

           「故国喪失(エグザイル)は、それについて考えると奇妙な魅力にとらわれるが、経験すると最悪である」という感傷的な一文から始まるこの表題作は、文学作品などで英雄的にあるいはロマンティックに描かれることが多いエグザイルだが、それを経験した者にとっては癒しがたい亀裂と根元的な悲しみにあふれるという矛盾が指摘される。コンラッド、アドルノ、あるいはマフムド・ダルウィッシュの詩などを論じながら、サイードはエグザイルのネガティブな一面を描いたものとして文学を擁護し、同時にそれは説得力のある

          『故国喪失についての省察 1』より〈12 故国喪失についての省察〉エドワード・W・サイード

          『故国喪失についての省察 2』より〈23 知の政治学〉エドワード・W・サイード

           サイードは「世俗世界性」(worldliness)という概念をよく用いるが、いまひとつ分かったようで分からなかった。この章を読み、よく理解できた。それは、知について語る次の箇所で明快である。 知的作業という人間のいとなみは、つねに世界のなかに位置づけられ、世界について語るものである。つまり世俗的(ワールドリー)なのである。そのため、そうした知的作業の対象が、同じような精神を共有した人たちだけにしか、もしくわすでに同じ考えをしている人たちだけにしか把握できないような、厳密に

          『故国喪失についての省察 2』より〈23 知の政治学〉エドワード・W・サイード

          『故国喪失についての省察 1』より〈17 被植民者を表象する━━人類学の対話者たち〉エドワード・W・サイード

           《そもそも人類学とは、支配者たるヨーロッパの観察者たちと、非ヨーロッパ系原住民━━いわば従属的地位と遠隔の地に押し込められてきた━━とが、民族誌学的な出会いを果たしたまさにその起源となる地点において、歴史的に構成され構築されてきた学問である》(281ページ)と喝破するこの章は、「非植民者」「表象」「人類学」「対話者」という言葉を吟味するところから始まる。その議論の展開から、ここでは「観察者」と「物語(ナラティヴ)」という二つのキーワードに注目してみたい。それは私が「沖縄」と

          『故国喪失についての省察 1』より〈17 被植民者を表象する━━人類学の対話者たち〉エドワード・W・サイード

          『ポスト・オリエンタリズム』〈第1章 亡命知識人について〉ハミッド・ダバシ

           エドワード・W・サイード著『知識人とは何か』の序文として書かれたハミッド・ダバシ著『ポスト・オリエンタリズム』の〈第1章 亡命知識人について〉を読むと、アイロニックであることは〈開く〉行為であることがわかる。  ダバシによれば、『知識人とは何か』の核心はその第3章にある。すなわち、故国喪失者そして周辺的存在であることが知識人の条件だとする主張は、パレスチナからアメリカへ亡命したサイード自身の経歴から導き出されるものとして読めるが、同時に、亡命状態(エグザイル)には文字通り

          『ポスト・オリエンタリズム』〈第1章 亡命知識人について〉ハミッド・ダバシ

          『決定版 パリ五月革命 私論 転換点としての1968年』西川長夫

           1968年のパリ五月革命の現場に「偽学生」として居合わせた著者による手記。50年近く前の記憶をたどりつつ、当時の写真、証言、壁への殴り書き、パンフレットの言葉などをコラージュ風に並べるという手法が懐古調を遠ざける効果を発揮している。ドキュメントとしても成立している。パロールが、エクリチュールが沸き立つが、同時に著者の実直な文体によって、「革命」がひんやりと伝わる。  パヴェ。パリの石畳の基材である敷石。時に武器を持たない市民の武器として、時にバリケードの資材としての、反抗

          『決定版 パリ五月革命 私論 転換点としての1968年』西川長夫

          『パレスチナ/イスラエル論』早尾貴紀

           本書のあとがきで著者は、「パレスチナ/イスラエル問題をいかにして世界史的文脈に接続させつつ自らの関わり方を思考できるか」を問うている。私はその問いに続くように、「パレスチナ/イスラエル問題」に「沖縄問題」を、いったん自分だけわかる代入をさせながら読む。個別の問題を普遍性に啓くと同時に、「普遍性」に対し自身を無批判に合致させるリベラルが持つ欺瞞とは袂を分かち、当事者としての「私」を前景させながら。  〈第一章 ディアスポラと本来性〉で吟味される「本来性」という概念。第一次世

          『パレスチナ/イスラエル論』早尾貴紀

          『精神分析と横断性』〈看護人─医師の関係をめぐって〉フェリックス・ガタリ

           ひたすら「横断性」という概念についての関心から手に入れた本書は、フランスの精神分析学者にして政治闘争にコミットした著者による1955年から70年までの論文集である。それらは精神医学・精神分析に関するものと一九六八年五月革命前後の政治闘争に関わるもののいずれかに分類できるが、各々の文脈として読み進めると、精神病院の改革に同時代の政治的固有名が絡みつき、生々しい政治闘争のパロールに精神分析の手法が突如として介入する。いずれかに関心を持たない者が読めば、いずれにも挫折しそうになる

          『精神分析と横断性』〈看護人─医師の関係をめぐって〉フェリックス・ガタリ

          『逃亡くそたわけ』絲山秋子

           精神病院を抜け出した男女による車の逃避行。ルートは九州の北は福岡から南は鹿児島まで。なんとも興味をそそられる設定である。  一人称の「あたし」と成り行きで行動を共にする「なごやん」。絲山秋子が書く男たちは、ジェンダー規範による男性性にそぐわないイタさをみな持ち合わせているが、「なごやん」も同類といえる。もちろん、それは「あたし」から見るとそうなのだが。名古屋出身という出自をひたすら隠し、大学生活4年間を過ごしただけの東京に強い幻想を抱いている。「あたし」の博多弁はそのイタ

          『逃亡くそたわけ』絲山秋子

          『100分de名著 カント 純粋理性批判』 〈自由で道徳的な支援とは〉 西 研

           西研は最終の〈第4回 自由と道徳を基礎づける〉の締めくくりとして、カントの功績を「自然科学と生きる上での価値について、両方を見渡す哲学を築いたところにある」(119ページ)とした。そこには、科学の知を絶対視しないこと、人間が先で科学は後である、つまり、人間の主観を基点にするという考えがあるのだ、と。そこからAI万能論を批判し、カントの哲学にある「よい生き方」を求める道徳性の現代的価値を論じる。  その次の段落で西が述べている部分に注目する。次の引用である。  このような

          『100分de名著 カント 純粋理性批判』 〈自由で道徳的な支援とは〉 西 研

          『100分de名著 カント 純粋理性批判』 〈第4回 自由と道徳を基礎づける〉西 研

           カントは人間に自由が「ある」とも「ない」ともいえないと結論づけたが、『純粋理性批判』終盤では、なんと!「人間に自由がある」と、どんでん返しを行う。  人間の理性には、世界の全体を「完全なもの」として知り尽くしたいという欲求の他に、「完全な生き方をしたい」という欲求もある(「最高の善い生き方をせよ」と理性は命令を下す)。  理念は、認識の面では実現されることはない。しかし、人が実践するとき、理性は「完全な道徳世界」という「実践的理念」にもとづいて「〜すべし」と命令してくる

          『100分de名著 カント 純粋理性批判』 〈第4回 自由と道徳を基礎づける〉西 研