『女性・ネイティヴ・他者 ポストコロニアリズムとフェミニズム』トリン・T・ミンハ
表題のひとつひとつの概念について、このように詩的な文体で書かれた書を読んだことがない。それほど新鮮な読書体験であった。という凡庸な感想に私が用いる「詩的」という言葉は女性的、感性的などと親和的であり、それらへの二項対立として男性的、論理的、理性的などがあらかじめ併せもたれていることを、書いた直後の私は否定できない。
このように根深い「男根主義」に対して、「思考は脳という特殊な器官の産物であり、感情は心の産物だと考えるのはこじつけだ」(55ページ)と批判するミンハは、「肉体」「子宮」といった男性都合で女性にあてがわれた言葉に含まれる政治的イメージを暴き、奪い返す。
ただ、奪い返すという言葉からして留保が必要だろう。そのガサツさには批判する相手に潜む権力性を自ら抱え込んでしまう反動形成の罠がある。その罠に敏感なミンハは、次の引用のように言葉をずらしながらほぐしていく。
書きものは必然的に書きものを参照する。そのイメージは、別の鏡に映った像だけを映し出す鏡だ。小文字の〈わたし〉(*ルビ i)が、「大文字の《私》(*ルビ I )は、自分が自分の見ているものを見ている」と言うとき、大文字と小文字の〈私(*ルビ I )/わたし(*ルビ i)は、主体と主体(あるいは客体)との幻覚的な関係を言っているのではなく、本当の主体を無限に遅延させ、起源としての「私」を転覆させる複数の鏡の戯れを言っているのだ。
(33ページ)
ここでの「本当の主体」や「起源としての「私」」を疑いつつ想起することが、本書を読む秘かな愉しみであろう。
〈Ⅱ ネイティヴィズムの言語 ━━男が男から聞き取る科学的会話としての人類学〉の冒頭では、「すぐそばにいる読者のすべての見ている前で、彼を裸で走らせよう」(75ページ)というサディズム/マゾヒズム的意匠の一文から始まる。「彼女」が住んでいる場所のドアは「彼」の鏡を映す鏡のように回転され、そこには抑圧があるとされる。「彼女」は「彼」の宇宙のほつれた糸を解きほぐそうとするが、沈黙しつづけてしまう。「彼女」に近い存在の「私」はそれが私自身を読みといていることと思っていたけれど、「それは彼が私を読んでいると私が思っているやり方で読んでいるにすぎないのではないか」と疑う。「私」はこの堂々巡りから逃げてもしかたないと思う。知を用いてそこでの差異化をただ続けるのみだと。
ここで「私」が批判するのは「彼」が継承している権力の自明性を否定するそぶりを見せることではないという。そうではなく、「私になり代わって私自身を通して語っているふりをしながら、その実、彼の言語を記録する彼の耳、彼の目、彼のペンの方なのだ」という(77ページ)。あらかじめ権力を持つ側(彼)が「彼女」や「私」に共感すると自他共に疑わず施す行いに対して、「彼女」や「私」を利用して、自らの権力性を保持したまま書く、語るという差異を見出し、それをこそ批判する。
さて、続く箇所を引用するが、ここではまさに「本当の主体」や「起源としての「私」」を疑いつつ想起することが記されている。明らかにロラン・バルトのテクスト論に依拠してのこれら「織物」をいかに読むかがポイントであろう。
だから私は、それらを払拭するために、対抗という手段はとらない。むしろ、対立するもの同士がその本質的な差異を失う場所、その相互の互換性によって対立が無効となる地点を、書くことによって作り出したいのだ。
(77ページ)
私のゲームのルールの一つは、彼の言葉を反響させ、それを彼が思いも寄らなかった耳障りな音にしてしまうこと、つまり、彼の言葉をあちこちに跳ね返らせて、その結果、その言葉を通して、その言葉の裏で言われていること、言われてきたことのほとんどを明らかにすることだ。
(78ページ)
ここでもやはり唐突に「沖縄」を代入してみる。「沖縄になり代わって沖縄自身を通して語っているふりをしながら、その実」自らの言語を記録する耳、目、ペンを持つ「彼」=私について。その批判を認める私は、「彼女」が私の言葉を「あちこちに跳ね返らせて、その結果、その言葉を通して、その言葉の裏で言われていること、言われてきたことのほとんどを明らかに」した場合、どうしよう?「彼女」が「その本質的な差異を失う場所、その相互の互換性によって対立が無効となる地点を」書くとき、私は、むしろ私が率先してその地点を書くことができるだろうか?そのために、本書を読み返したい。
『女性・ネイティヴ・他者 ポストコロニアリズムとフェミニズム』
岩波人文書セレクション
著者:トリン・T・ミンハ
訳者:竹村和子
発行:岩波書店
発行年月:2011年11月9日
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