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『100分de名著 カント 純粋理性批判』 〈第4回 自由と道徳を基礎づける〉西 研

 カントは人間に自由が「ある」とも「ない」ともいえないと結論づけたが、『純粋理性批判』終盤では、なんと!「人間に自由がある」と、どんでん返しを行う。


 人間の理性には、世界の全体を「完全なもの」として知り尽くしたいという欲求の他に、「完全な生き方をしたい」という欲求もある(「最高の善い生き方をせよ」と理性は命令を下す)。


 理念は、認識の面では実現されることはない。しかし、人が実践するとき、理性は「完全な道徳世界」という「実践的理念」にもとづいて「〜すべし」と命令してくる。


 さらにカントは、道徳的に生きることを最高の生き方とするだけでなく、そこにこそ人間の自由があるという。


 カントにとって「自由に生きる」とは、人のいいなりにならず主体的に考える姿勢であり、主体的な判断に従って道徳的に行為することである。決して「勝手気まま」でも「欲望の解放」でもない。


 では、そもそも人間に自由があるともないともいえる(正反の命題がどちらも成り立つ)のはなぜかを確認してみる。それは人間が「現象界」と「叡智界」という二つの世界に属しているからである。


 まず、人間の行動を外から見れば(認識の対象とした場合)、すべて因果律で説明することができる。たとえば「脅されたから」「気の弱い性格だったから」などの原因によって、嘘をつくという結果が生まれた、ということになる。ここに人間の自由はない。


 しかし、行為している本人の立場からすると、嘘をつかないこともできた、自分がどう行動すべきか主体的に判断して行為したこともあっただろう。これが実践的な立場である。実践の主体として人間は叡智界に属しているので、その行動は自然法則を超えた「自由な原因性」でありうる。だからそこに自由はある。


 実践理性がその実現を命ずる生き方のルール(「道徳法則」)の中から二つをみてみる。

 汝の人格の中にも他のすべての人の人格の中にもある人間性を、いつも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない、というようなふうに行為せよ。
(『人倫の形而上学の基礎づけ』野田又夫訳・中公クラシックス)
 汝の意志の採用する行動原理(格律)が、つねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。
(『実践理性批判』中山元訳・光文社古典新訳文庫)

 後者を一言でいえば、どんな人も自分なりのルールをもっているけれども、それが自分勝手なものになっていないか、絶えず吟味して行動せよ、ということである。
 
『100分de名著 カント 純粋理性批判』 
〈第4回 自由と道徳を基礎づける〉
著者:西 研
発行:NHK出版
発行年月:2020年6月1日


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