見出し画像

『100分de名著 カント 純粋理性批判』 〈自由で道徳的な支援とは〉 西 研

 西研は最終の〈第4回 自由と道徳を基礎づける〉の締めくくりとして、カントの功績を「自然科学と生きる上での価値について、両方を見渡す哲学を築いたところにある」(119ページ)とした。そこには、科学の知を絶対視しないこと、人間が先で科学は後である、つまり、人間の主観を基点にするという考えがあるのだ、と。そこからAI万能論を批判し、カントの哲学にある「よい生き方」を求める道徳性の現代的価値を論じる。


 その次の段落で西が述べている部分に注目する。次の引用である。

 このような人間の「生」のあり方を正面から捉えることが、いま必要になっています。それによって、教育や医療などの「支援」(ケア)の仕事をよりよいものにすることや、科学技術の進歩を適切にコントロールすることもできるでしょう。
(120ページ)

 これに関連して、番組では次のような例え話が紹介された。電車内でお年寄りに席を譲ったとして、その動機が「かわいそうだから」そうしたとしたら、それは道徳的でなく自由がない。なぜならば、その行為は「〜だから・・・した」というように因果律によるものであり、自律的ではないから。そこに直面した際に、自分の行いが「普遍的立法の原理として妥当するように」、それが自分勝手なものになっていないか、絶えず吟味しての行動である必要があると、カントであれば言っただろう、と。


 このやっかいな問題が、支援の現場において、支援する側とされる側のあいだに生じる意識のズレとして普遍的であることは、関係者であれば容易に想像がつく。私もその一人である。とはいえ、「かわいそうだから」という「道徳感情」は根強く残ることも、また事実である。では、どうすればよいか。


 カントに倣い、次の道徳法則を確認する。

 汝の人格の中にも他のすべての人の人格の中にもある人間性を、いつも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない、というようなふうに行為せよ。

 「人格の中にある人間性を目的として用いる」。現象界においては、お年寄りという客体に対し主体は因果律にしばられ行為をする。同時に、叡智界においては、自分の行いを吟味せよと「命令」が下される。「人間性を目的として用いる」とはそのケースでは具体的にいかなることかを吟味せよ、と。


 それをひとまずひらたくいえば、支援される側(弱者)であっても同じ人格をもった人として接すること、といってみる。いった途端、陳腐であると感じる。


 それでは、と吟味してみる。この道徳法則を注意深く読むと、「汝の人格の中にも」とある。つまり、他者に対する行為に注意がいきがちであるが、自分の人格も目的として用いよといっている。他者を「かわいそうだがら」とするならば、自分に対しても「かわいそうだから」〜しなければならない。それを自分は肯定するか、ということである。


 さらにいえば、「いつも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない」を吟味する必要がある。柄谷行人は、この部分を手段として「のみならず」と訳す必要性を強調した。その意味は、手段として用いることは避けられない、だけれども、同時に目的としても用いることが求められるのだ、と。そこには後者は簡単ではないということも示唆されている(『トランスクリティーク』)。


 柄谷がいっていることはこういうことだ。「手段として用いる」とは、資本制経済社会において生きる以上、避けられない。私は他の誰かが生産したモノや他の誰かによるサービスを利用して日々生活している。賃労働によって生活の糧を得ているが、私を雇っている雇用者は、私を手段として用いている。私も雇用者を手段として用いている。雇用者も私も、善意にあふれる人であるか悪徳であるかに関わらず、そうしている。誰もが、他者を手段として用いる関係性にある以上、他者を「手段として用いる」ことは避けられない。それを認めた上で、「同時に目的として用いる」「というようなふうに行為せよ」と、どこからか「命令」が下される。そのような道徳法則を人間はアプリオリに持っているはずだ、と。


 支援「職」も例外ではない。資本制経済社会においては、支援する側もされる側もお互いを「手段として用いる」ことは避けられない。だから、支援する側がされる側に対して「かわいそうだから」という「道徳感情」を持つことを否定する必要はない。それは資本制経済に生きることでせり出す感情の「にごり」のようなものであるから。


 支援される側は「かわいそう」だと思われることに、当然ながら反発する。両者のズレを完全に解消することは、現象界においては難しい。


 だからこそ、「汝の人格の中にも他のすべての人の人格の中にもある人間性を、いつも同時に目的として用い」よ、という「命令」に耳を澄ます必要がある。その一瞬「支援する側/される側」という主客は消えて無くなるだろう。叡智界は、実は、支援=ケアの現場で、営為として日々すでにあるはずだ。私たちの多くが、それに気がつかないとしても。

『100分de名著 カント 純粋理性批判』 
著者:西 研
発行:NHK出版
発行年月:2020年6月1日


関連記事

『100分de名著 カント 純粋理性批判』 〈第1回 近代哲学の二大難問〉西 研

『100分de名著 カント 純粋理性批判』 〈第2回 科学の知は、なぜ共有できるのか〉西 研

『100分de名著 カント 純粋理性批判』 〈第3回 宇宙は無限か、有限か〉西 研

『100分de名著 カント 純粋理性批判』 〈第4回 自由と道徳を基礎づける〉西 研



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?