見出し画像

『故国喪失についての省察 2』より〈27 歴史、文学、地理〉エドワード・W・サイード

 歴史と文学は人文学として親和性があるがゆえに、時にたやすく同じ枠にくくられることがある。若きサイードがハーヴァード大学で「歴史と文学」というコースの準講師を務めた冒頭のエピソードも然り。サイードは表象文化論の古典ともいえるアウエルバッハの『ミメーシス』を紐解き、「時間性を、歴史的現実を把握するための理解方法であると同時に、過去、現在、未来にわたる人間経験の収納庫とみなすという伝統」において、歴史と文学が照応する方法論を見出す(187ページ)。


 時間性ということでアウエルバッハの背後にあるのは、ヘーゲルの弁証法である。ある時間的順序にもとづき、対立、矛盾、反定立といった諸要素が総合にいたる論理的過程において、対立はつねに調和にいたるという定式がそうだ。サイードはヘーゲルの弁証法を否定的媒介として、ヘーゲル側として美的時間性を扱う理論家のジョルジ・ルカーチについて前半で論じ、後半ではそれへの対比として、不連続な地理的感覚を持つアントニオ・グラムシについて論じる。


 ルカーチの文学理論は次のようである。古典時代の調和と全体性に対し、近代は分裂と欠如の世界であり、主体と客体にアイロニックな認識が生じる。「この超越論的な故郷喪失性こそが形式としての小説を生みだす」(190ページ ※サイードがエグザイルという自身に起源を持つ言葉を当てはめている点に、ここでは注意したい)。この小説形式そのものが、近代性がもたらす困難に対して美的解決を与える。この美的解決を可能にするのが時間である。「時間性は、形式として、過程として、想定上の調和とみなされ、そこで知ろうとする主体とそれに抵抗する客体が、全体性という範疇をつうじて、最終的にはある和解へと到達することができる」(193ページ)。


 この時間性と対比されるものとして、サイードはグラムシの批評意識の根底にある地理的位相を最大限に評価する。グラムシは、支配/被支配、同質性、思想が持つ正統性や権威や自己正当化を批判し、のみならず理論と実践の新たな統一を作り出そうとした。以下の引用は、グラムシへの評価を見事に現してる。

つまり、あらゆる思想、あらゆるテキスト、あらゆる著述は、現実の地理的状況のなかに組み込まれているがゆえに可能なのであり、それから次に制度的、時間的に拡大されていくのだ。それゆえ歴史は、不連続な地理から派生する。グラムシの著述がある程度まで、そもそも散発的で断片的な性質をもつ理由は、ひとつには彼の仕事が状況に対する強度と敏感さを兼ねそなえているためであろう。それはまた、グラムシが保持しようとした批評意識にもかかわってくる。彼にとって批評=危機(クリティカル)意識とは、システムに飲み込まれないこと、牢獄から解放されること、システム、歴史、過去の著述のもつ重み、規範的立場、既得権益などにからめ取られないことを意味するようになったとわたしは考える。グラムシの覚書、新聞記事、随想的断片、折々のエッセイなどすべてが、それぞれのジャンルを構成する固有の性質をそなえており、いわば相反するふたつの方向に赴く。当然ながら、はじめに、それらの著述は、ある身近な緊急の課題を、それをめぐる複雑な状況のなかに位置づけ、諸関係の不均等な総体(アンサンブル)として扱う。しかし次に、こうした折にふれ書くという非連続な著述行為は、世の中一般の状況から離れて、作者自身への立場へと向かうことになる。そこで浮き彫りになるのは、作者自身その場にいるのは偶然にすぎないこと、そういった偶然性すら彼の立場のつかのまの一時性によって切り崩されること、つまり、彼はいつでも永遠に書くことができるのではなく、彼の置かれた状況がいやおうなく「多面的(プリズマテイツク)」表現に向かわせるのである。しかし、グラムシがこのような著述形式を選択したのは、言葉を未完のままにとどめ、発話を完結させないためであった。というのも、彼の著述が彼自身に対しまた読者に対しあくまでテクストの位置を与えられて、自分にも読者にも支配力をおよぼす解決済みの体系的思想とはならないよう、配慮したからである。
(199〜200ページ)

 サイードのグラムシに対する批評の言葉があまりにもすばらしく以下も延々と引用したい誘惑にからてしまうが、ここで、地理的という概念をまとめることにする。それはヘーゲル的な時間性の核心にあるアイデンティティに対し、揺さぶりをかけ、永続化を許さないような流動状態にある。グラムシは歴史を、社会を空間的に把握した。絶えず変化、運動、変動によって生じる不安定なそれとして。それらは調和的に格納される貯蔵庫などではなく、領土上で生じる生産活動である。


 サイードはグラムシの批評性を後のサバルタン階級の出現を可能にするものとしても評価する。故郷喪失状態にある知識人としての自らを重ねるように。その後に続く「ヘーゲル流のモデルに固執すれば、不調和は支配的潮流によって変化という問題に解消され、新しいアイデンティティがふたたび強化されることになってしまう」(201ページ)という警句は、グラムシのみならずサイードの同時代の政治イシューへのアクチュアルな批判だが、現代の私たちの置かれた状況に対しても鋭くえぐる。病を理由に退く政治的リーダーという不調和に対し、「継承」という「変化」として解消され、新し(くもない)アイデンティティが強化されるのは、この国の今においても少し前の沖縄の政治状況においても同様であれば。

『故国喪失についての省察 2』より
〈27 歴史、文学、地理〉
著者:エドワード・W・サイード
発行:みすず書房
発行年月:2006年4月6日

『故国喪失についての省察 1』より〈12 故国喪失についての省察〉エドワード・W・サイード

『故国喪失についての省察 2』より〈23 知の政治学〉エドワード・W・サイード

『故国喪失についての省察 1』より〈17 被植民者を表象する━━人類学の対話者たち〉エドワード・W・サイード

『ポスト・オリエンタリズム』〈第1章 亡命知識人について〉ハミッド・ダバシ

『パレスチナ/イスラエル論』早尾貴紀

『希望のディアスポラ 移民・難民をめぐる政治史』早尾貴紀

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?