見出し画像

『故国喪失についての省察 1』より〈17 被植民者を表象する━━人類学の対話者たち〉エドワード・W・サイード

 《そもそも人類学とは、支配者たるヨーロッパの観察者たちと、非ヨーロッパ系原住民━━いわば従属的地位と遠隔の地に押し込められてきた━━とが、民族誌学的な出会いを果たしたまさにその起源となる地点において、歴史的に構成され構築されてきた学問である》(281ページ)と喝破するこの章は、「非植民者」「表象」「人類学」「対話者」という言葉を吟味するところから始まる。その議論の展開から、ここでは「観察者」と「物語(ナラティヴ)」という二つのキーワードに注目してみたい。それは私が「沖縄」という「表象」について考えることに関わるし、また、「人類学」は広義の社会学を一例としてアカデミズム全般に、あるいはジャーナリズム、そしてアクティヴィズムについても無縁ではないと思われるので。


 観察者
 帝国主義的風景(ここでの「帝国」は主にアメリカ合衆国を指す)における他者との関係性を考える上でやっかいなことは、とサイードは述べる、いかなる特権的外部も存在しないということである、と。現在進行形の利害関係から身を引き、世界を判断、評価、解釈することができるような認識論的立場などありえず、わたしたちは、その関係性の内部に立ち、そこに参加する者としてあるべきだ、と。


 それがままならない現代の欧米人類学を表象する例として、サイードが文学作品を例として挙げる手法が読者には伝わりやすい。ラドヤード・キプリング作『キム』に登場するクライトン大佐はインド調査の民族誌学者であり、少年キムが属するイギリス諜報機関の頭目でもある。そこには《一方には、力関係にもとづく生々しい政治的現実があり、他方には、必ずしも力頼みではないやり方で、共感をもって解釈学的に「他者」を理解しようとする科学的かつ人文学的欲望がある》(290ページ)。サイードは、現代の西洋人類学がこの「ほとんど乗り越えがたい亀裂」に気づいていながら、「ぬけぬけと無視を決め込んでいる」と厳しい言葉を向ける。


 ところが「参加する者」という言葉でアクティビズム宣言をしたかに見えながら、サイードは、亀裂を克服しようと試みるよりも、その試みを可能にしているものは何かと問いをたてることを優先する。つまり、表象を省察することを。サイードの言葉を借りれば、アメリカの内部から世界を把握しようと試みることは、帝国主義闘争を理解することでもある。帝国主義闘争とは、「他者性」や「差異」といった概念に明確な定義を与えることである。サイードはここで、「他者性」や「差異」といった人類学でもよく使われる概念が、しかしながら中立を装い、それを語る主体の当事者性を捨象するものであることを見抜き、「いや、それは極めて政治的な概念である」と、言説を奪い返す試みをしている。


 ここまでくれば、もはや「観察者」の問題は明らかだろう。《このような主体の地位、活動分野、移動の軌跡はひと括りとなって、やっかいなほど厳密なかたちで、帝国主義的関係そのものに隣接しているのだ》(291ページ)。「やっかい」だということは、これを読むわたしやあなたも、その関係に絡めとられているということにほかならない。わたしたちはそのやっかいさに目を背けがちだ。しかし、勘違いしてはいけない。その立ち位置は安全な外部ではありえないのだ。


 物語
 近年の人類学に文学理論や歴史学からの借用が目立つのは、政治的な問題を回避するためであり、それ自体が帝国主義的文脈と通底していることはいうまでもない。「物語(ナラティヴ)」を斬新で柔軟な方法として考えることは可能か、という問題をサイードは設定する。


 リオタールによれば、解放と啓蒙という大きな物語は力を失い、小さな局所的物語に取って代わられる。このポストモダニズム理論に対し、サイードは、大きな物語が失墜したのは、モダニズムが危機を迎えたからだと反論する。エリオット、コンラッド、マン、プルースト、ウルフ、パウンド、ロレンス、ジョイス、フォースターといった作家たちは、他者性や差異という概念を、異邦人と関連づけて描いた。異邦人たち、すなわち、女性、原住民、性的逸脱者らは、宗主国の安定した歴史、形態、思考形式に抵抗し、異議申し立てを立てる。モダニズムはこの異議申し立てに対して、イエスでもノーでもない、文化特有の、「自意識の強い静観的受動性」でもって対応した。さらにその受動性は、みずからの無力さをも美学化しようという麻痺的な身振りさえ伴った。


 一方で、ファノンやセゼールの対抗物語は、西洋の歴史を植民地の歴史とあわせて再考するよう、ヨーロッパ宗主国に対して迫った。それは西洋人と非西洋人の両者を含む人類全体の運命という概念にもとづく、ポスト帝国主義世界のためのモデルとしてあった。


 しかしながら、ファノンやセゼールはアイデンティティ志向の思想を批判した。闘争のさなかにあっても、安定したアイデンティティだとか文化的に権威づけられた定義といった固定観念を捨てよと、支持者に要求した。「植民地化された民族の運命を異なるものにするためには、まず異なる者になりなさい」という言葉は重い。現代の人類学が考える「他者性」や「差異」といった概念も、アイデンティティへの志向性を共有していることを思えば、ファノンやセゼールの批判は、それらに対しても包括的な批判といえる。


 ここまできて沖縄の文脈に変換してみる。社会学において、あるいはジャーナリズムにおいて、「反戦」「平和」という大きな物語はもはや力を失った。市井の人々が語る小さな物語にこそ真実はある。それを「物語」という手法で記述する。書き手(聞き手)の中立的なスタンスは、近代日本文学からの影響も意識的・無意識的に被りつつ「自意識の強い静観的受動性」を維持する。このような知的状況がもてはやされるとしたら、それに対しわたしは闘争しよう。

『故国喪失についての省察 1』より
〈17 被植民者を表象する━━人類学の対話者たち〉
著者:エドワード・W・サイード
発行:みすず書房
発行年月:2006年4月6日

関連記事

『ポスト・オリエンタリズム』〈第1章 亡命知識人について〉ハミッド・ダバシ

『パレスチナ/イスラエル論』早尾貴紀

『希望のディアスポラ 移民・難民をめぐる政治史』早尾貴紀


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?