見出し画像

『パレスチナ/イスラエル論』早尾貴紀

 本書のあとがきで著者は、「パレスチナ/イスラエル問題をいかにして世界史的文脈に接続させつつ自らの関わり方を思考できるか」を問うている。私はその問いに続くように、「パレスチナ/イスラエル問題」に「沖縄問題」を、いったん自分だけわかる代入をさせながら読む。個別の問題を普遍性に啓くと同時に、「普遍性」に対し自身を無批判に合致させるリベラルが持つ欺瞞とは袂を分かち、当事者としての「私」を前景させながら。


 〈第一章 ディアスポラと本来性〉で吟味される「本来性」という概念。第一次世界大戦後ヨーロッパ全土に広まった歴史哲学的認識であり、とりわけドイツにおいて、ドイツ国民の「固有性」「本来性」が古典哲学によって基礎付けられ、戦争の意味・正当性まで論じられた。


 とりわけハイデガーにおける「政治の美学化」では、近代資本主義世界における「故郷喪失」が歎かれた後、ドイツ国家がヨーロッパの「起源」たるギリシャ世界を反復する物語が語られ、新しく打ち立てられた民族や国家の「本来性」が獲得される。ここではドイツ国民が普遍的人間として代補される。


 これに対しアドルノは、「本来性」はただの空疎な形式にすぎないとした上で、それにもかかわらず、それが自然化・内面化・神格化を伴い、同時に「非本来的人間」という存在を生み出し、ユダヤ人虐殺を正当化する危険性が生じることを批判した。


 著者は「ユダヤ人/アラブ人」という線引きそのものが恣意的なものにすぎず、その区分が矛盾をきたし不当であることを、パレスチナ/イスラエルの歴史を丁寧に紐解くことで明快にしている。その上で、パレスチナ人が西岸地区、ガザ地区、東エルサレム、イスラエル国籍者、国外難民などに分断されてきた経緯が等閑視され、現状の西岸地区、ガザ地区を狭い領土主義から眼差すことで「本来的パレスチナ人」とみなす事態が(外部のみならずパレスチナ人においても)生じていることに警鐘を鳴らしている。これはパレスチナ/イスラエル問題に関心のある者であっても見過ごしやすい盲点であろう。


 この章の冒頭で著者は、ディアスポラとは何かを問うことは、本来的国民を問い直すことであるとする興味深いテーゼを掲げている。どういうことか。ディアスポラの定義を「本来あった/あるべき土地からの越境・離散」とするとして、そもそもその「本来性」とはいかにして成り立つのか。その裏側には「本来あるべき土地にいる国民」が無意識に想定されていないだろうか。本来性が「土地と民族の自然的一体化」の装いをとるために自明視されてしまう一方で、ディアスポラは本来性からの「逸脱」としてのみ規定されてしまう。「つまり、本来性とディアスポラは、たんに対立的な二項なのではなく、前者が無徴化され、後者が有徴化されているという点で、不均衡をなしている」(18ページ)。


 ここで少しだけ「沖縄」に議論を展開すれば、沖縄とヤマトゥという対立的な二項において、どちらにおいても「本来性」が立ち上がる危うさは常にあるという地点から始めてみたくなる。しかし、その刹那、自らの立ち位置は宙吊りになる。まさにそのクリティカル・ポイントに知らずに立たされているのだが。本書はそこへの吸引力をもっている。


 他にもバイナショナリズム(二民族一国家論)という問題について、サイード、アーレント、アガンベン、シュミットなどを参照しながらその思想史的意義が論じられる刺激的な章など読み応え十分だが、これらは別の機会に紹介したい。

『パレスチナ/イスラエル論』
著者:早尾貴紀
発行:有志舎
発行年月:2020年3月10日

関連記事

『希望のディアスポラ 移民・難民をめぐる政治史』早尾貴紀

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?