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自分の人生の残り時間について考えてみる

このまえ、セネカの人生の短さについてを読んでみました。
そこで思ったことをまとめてみようと思います。
そのまえに、そもそも、セネカとは何者なのかについてお話ししようと思います。

セネカとは

彼の本名はルキウス・アンナエウス・セネカといい、古代ローマ帝国の時代に生きた哲学者であり政治学者でした。かの有名な暴君と言われているネロ皇帝のバックボーンとして活躍したと言われています。

彼が書いた有名な著作は

『怒りについて』、『幸福な人生について』、『心の平静について』などです。

今回はその数ある著作の中から『人生の短さについて』を読んだ感想、内容をわかりやすく伝えていきたいと思います。

人生ってなんだ

人生ってなに?と、子供に問われた時、大抵の場合「人が生きている間の期間のことだよ」と説明することは容易だと思います。しかし、『その人生をあなたは有効に使っていますか?』と問われた場合、大抵の人は言葉に詰まってしまうのではないだろうか。筆者の場合、言葉が詰まる余裕もなく、答えは即答である。『有効に使えていない』である。昨日だって、Youtubeをみてしまったり、勉強があまり捗らなかった。『有効』とは言い難いだろう。

人生は短い

幼少期の頃には幼稚園で『一個ねがいことを叶えられるとしたらどうする?』なんて聞かれたときに、『永遠に生きたい!』『120才まで生きる!』なんて無邪気いったものだ。大人になるにつれて、現実は非情であることを思い知らされる。60代までの死亡率は10%弱と言われているが、10%も死ぬのだと考える恐ろしい。60代を過ぎると指数関数的に死亡率は上昇していく。つまり、いつなんどき死ぬか分からないということである。もしかしたら、この文章も書いている間に筆者は死亡している可能性もありうるわけである。(読者がこの文章を読んでいるということはまだ生存しているということである)冗談はさておき、このような時間的な人生の短さというのもあるのだが、今回セネカが指摘するものは時間的ではなく精神的な人生の短さについての問題である。つまり、人は自らの行動や判断によって、自分の人生を浪費しているということだ。

セネカ: 老人に問いかける

『人生の短さについて』のなかで死にかけの老人にセネカが問いかける場面がある。引用しようと思う。少し長いが読んでみてほしい。

「あなたは、ひとの一生の最後の段階に達しているようにみえます。あなたは、すでに百歳に近い。いや、それ以上のお歳でしょうか。さあ、それでは総決算をしますから、あなたの生涯をここに呼び出してください。では、計算してください。あなたの生涯から、債権者によって奪われた時間は、どれだけですか。愛人によって奪われた時間は、どれだけですか。主人によって奪われた時間は、どれだ奪われた時間は、どれだけですか。奴隷の懲罰のために奪われた時間は、どれだけですか。つとめを果たすために、街中を歩き回って奪われた時間は、どれだけですか。では、次に、みずからの手で招いた病気[のために失われた時間]を加えてください。さらに、使われることなく無駄に過ぎていった時間も加えてください。――もうおわかりでしょう。あなたの手元に残る年月は、いま足し合わせていった[失われた]年月よりも短いのですよ。  記憶を呼び起こしてください。あなたがしっかりした計画を立てたことが、いつありましたか。あなたの決めた通りに事が進んだ日は、どれほどわずかでしたか。自分を自由に使えたことが、いつありましたか。あなたの普段どおりの顔つきでいられたことが、いつありましたか。あなたの心がおびえずにいたことが、いつありましたか。これほど長い生涯をかけて、あなたがなしとげた仕事は何ですか。どれほどたくさんの人たちが、あなたの人生を略奪していったことでしょう。しかもそのとき、あなたは、自分が何を失っているかに気づいていなかったのです。いわれのない悲しみや、愚にもつかない喜びや、飽くことのない欲望や、甘い社交の誘惑が、どれだけの時間を奪っていったでしょうか。あなたに残された時間は、どれほどわずかでしょうか。――もうおわかりでしょう。あなたは、人生を十分に生きることなく、死んでいくのです」
       人生の短さについて 他2篇 (光文社古典新訳文庫)より

まるで、頭を鈍器で殴打されたかのような衝撃がはしった。読んでいる途中からまるで説教されているような気持ちになってきた。しかし、その気持ちというのは不快感はなく心地よいものだった。この文章は老人に向けて書かれていたものであるが、全ての世代の人々に該当する問題であると思う。ここで述べられているように、くだらない人間関係、昇進のための上辺の付き合い、本能のままの欲望、これら全てが人生の時間を浪費している元となっているといえよう。

彼の言葉を引用すると

われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。

その通りである。

現代の方がきつい

古代ローマ時代よりも現代に生きる我々の方が、人生を短くさせるものは多くあると考える。スマートフォン、SNS、就職。特にインターネットの発達で今まで以上に人間関係は複雑になった。ひとは、互いの時間を奪い合い、互いの平穏を破り合い、互いを不幸にしている。そんなことをしているうちは、人生にはなんの実りも、なんの喜びも、なんの心の進歩もないというわけである。現代の難しいところは、実生活においてインターネットと我々は切り離せなくなってきている。必要か不必要か判断するその線引きは難しい。

生きることを知ろう

では、どうすればいいのか。休息である。しっかり休むこと、そしてくだらない人間関係をバッサリと切るか、きれないとしても心にゆとりを持つのが良いであろう。

生きることから最も遠く離れているのが多忙な人間だ。生きることを知るのはなによりも難しいことなのだ。

たしかに、多忙すぎる、セネカの生きていた時代以上に私たちは多忙な社会の中に生きている。そんなときに、一回息抜きで、散歩に出かけたり、リアルを楽しむということを追求するのもいいかもしれない。休息とは大切なものなのだ。

セネカは2千年前に、ローマ人の多忙な生き方を「今を生きていない」として批判した。自分のほんとうの時間を取り戻すようにと、『人生の短さについて』などの書籍で繰り返し説いている。さらに、使い方を誤れば人間を破滅に陥れるものだとして、必要以上の財産や贅沢をセネカは批判した。2千年たっても人間の生活態度への反省点は変わらないといえる。

それでは、またいつか

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