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誰かの大切な場所や日常が、ただ過去のものになることが怖い。描いていた未来は、手に入らなくても忘れるものか。

さて、大学が長期休学に入った。
「春になったら遊びまくれる…!」という邪な気持ちを胸に頑張った受験勉強、勝ち取った一人暮らし、楽しみにしていた新歓やサークル、新しく出来た大学の友達、講堂で講師を前に学びたかったこと。

帰省してきて、家族が高校や仕事に行ってがらんとしている家で、だらだらと映画を見ながら、行き場のないやるせなさとつまらなさを噛み殺している。

こんな事を言うと、「もっとしんどい思いをしている人もいるんだぞ!」と不快感を露わにされたりもする。勿論そんなことは100も承知だが、私達は誰も感情を持たないロボットじゃない。痛ければ痛いし、悲しければ悲しい。

こういう発言が言う「しんどい思いをしている人」というのは、大抵その発言をしているその人自身である。或いは自分の「しんどさ」をより辛そうに見える人に移入しているだけである。要は、「お前は●●(自分か、自分が感情移入している対象)より気楽でいいよな」と言いたいのである。裏を返せば、「俺の方がお前よりしんどいよ」ということだ。

だがしかし、この「自分よりしんどい思いをしている人がいる場合、弱音を吐いてはいけない」という理論だと、この世で弱音を吐いていいのは世界で一番辛い人、The 辛いest、のみである。

だから、私は私の等身大で弱音を吐くとするならば、受験で勝ち取ったモラトリアムの、真っ只中の半年間が、手に入った途端にウイルスに奪われたことが非常にやるせない。今日、本来なら今頃新歓だったし。数日前には花見もあったし。好きなバンドのライブのチケットも当たり、友達と遊ぶ約束をしていた。それらは全て刹那的で、宝箱の中にしまうような主観的で個人的な私の生活の一部だった。

私は、次に友達と遊ぶ予定、気になる先輩、好きなバンドのライブ、青春を生きる中で、そんな事で一喜一憂していたいのだ。それらは、何か別の重たいものを抱えていたとしても、私にとっては1番大切にしていたい類の悩みだ。

私は、「早く外に遊びに行きてぇ〜!」とか、「先輩に会いて〜!」とか、「旅行きて〜!ライブ行きて〜!」とか、今だって思い続けていたいし、聴いていたい。どうせ今は行けないんだし。行かないし。でも言う分には、考える分には、自由だし、それを咎める権利は本来誰も持っていない。
「○○に行きたい」すら言えなくなって、「仕方ない」ばかりが板について、いつしか貴方の大切だった場所が、思い出の中で完全に過去の産物になることが怖い。

カメラロールを見返すと、まるで思い出のようになってしまっている誰かとの繋がりが並ぶ。YouTubeを開いて、ライブの映像を見ながら、そこにいる何人もの人の体温を感じながら手を上げていたことを思い出す。これらがこのまま、本当にこの場所やこの関係が、ただの思い出になるのではないか、と思う度、底知れない恐怖を感じている。これを読んでいる人の中には、私と同じように割とアウトドアな性格の人も居るでしょう。このご時世あんまり本音を言えない職業の人も居るでしょう。

しんでぇよな!!!私は、マジで、もう駄目だ!!

勿論極端に思いやりに欠けたことは、言っちゃいけない。だけど貴方の弱音で不快な思いをする人がいるように、誰かの正義感溢れる発言で、貴方が傷付いたことだってある。そういう節々を、それぞれが被害者面して、大勢で晒しあげたって、それは正義のふりした承認欲求でしかない。

理不尽と自分で分かっていながら、相反する相手のことがどうしても憎くて仕方なかったりするのが、人間が人間らしくある証拠だ。私達はそんなに理路整然とした綺麗な存在じゃないし、だけど時に言葉を超えて、一体になれる瞬間だってある。そのことをずっと私達は、生身でかかわり合うことによって体現してきたんだ。

私の春には桜が咲き、薄紅に染まる川と、ブルーシート越しに伝う石のごつごつとした感触がある。

私の夏には花火が咲き、風が冷やす汗ばんだ背中や、祖母の家のアイスキャンデーがある。

私の秋には風が吹き、晴天の空と靴の中に入った小石と、虫の鳴き声が聴こえる。

私の冬には粉雪が舞い、カーテンの向こうが暗いまま鳴る目覚まし時計と、神社の境内で引いた、中吉のおみくじがある。

忘れるものか。

もし誰もが忘れてしまって、過去のものになりそうになったら、私はいつまででも言う。いつか、あの場所に行きたい。いつか、あの人達に会いたい。

眠れない夜に捧ぐ