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葉蔵

てめえで生きてく才覚もなく、親の仕送り頼りで他人の顔色を伺って生きてる道化で、
女のことも(本当にこいつはなんもわかってねーな、お前も死ね)って思ってそう(強めの偏見)なのにそれでも慰めてくれて手を差し伸べてくれる生き物がそこしかないから縋ってしまうし、そんな自分の不甲斐なさも、醜さも、弱さも、不甲斐なさも自分でちゃんと理解してるのが葉蔵なんだろうなと思った。(人間失格の話!)


久しぶりに人間失格を再読したら、ずいぶん感じることが違っていて自分でも驚いてしまった。

久々に読んで思ったのは葉蔵は価値観がない男だ。それは堀木にツネ子のことを貧乏臭い女だと言われたときも何も言い返せず、かといって堀木のいうことに乗るわけでもなく、ひどいことを言われたのを聞いて自分もどこか落ち込んでしまったもんだから、本当はツネ子のことが気になっていたのかもしれないと思うところ。

終始、葉蔵の意思がかんじられない。 葉蔵からしたら、ツネ子のようなしみったれた女(さっきから言葉が悪いな...)は葉蔵にとって心を通わせられる相手かもしれない、つまり自分と同じくどこかほの暗い部分を持った女という意味で、彼女のことを悪いようには思ってないだろうに、自分の意思というものがとにかく感じられない。自分がいいと思ったら良い女だと胸を張って言えばいいのに、それはしないし、まあそこまでは思ってなかったのかもしれないけど、それで堀木の言葉にショックを受けて落ち込むだけ。

そういう一切やり返さない態度にはもやもやするなあ。でも葉蔵は幼少期から道化を演じてきたから「自分の意見をはっきりと言う」ということ自体がわからないのかもしれないし、そもそもそういう概念すらこの人の中にはないのかもしれない。 人の顔色を伺うこと、基本的に自分の意見を言うなどの行動はせず、周りの言動に合わせるところは性格なのか、病癖なのか。

これは余談だけれど、"人間失格"って言葉を聞くと、じゃあ何をもって"人間合格"とするんだろう?と思うし、失格とは何をもって失格なんだろうか?とかそもそも人間とは...って考えだしちゃう。社会に馴染むこと?立派に稼いで見せること?父のように大地主とか偉い人になること?なにをもって人間の失格とか合格とか決まるんだろう。人間社会に馴染まないのは失格なのだろうか。でもそれなら社会というのが絶対的な指標になるから、完璧な社会でなければいけないはずであるのに、この社会は完璧といえるのだろうか?

完璧ではない社会に馴染むことは、人間合格なのか?なんだか、変だ、という。終わらない問いが続くんだけど、私は壊れた社会に馴染むほど、むしろ失格だろと思うからで。まあいいや、話を戻すと


「信じるなりは罪なりや」とか「大人とは裏切られた青年の姿だ」とかいう言葉からも、やっぱり宗教と向き合ったんだなというのもわかるし、時代観が詰まってて良いなとは思う。価値観を構築できていない人が、今まで周囲の人の裏の顔を見て、人なんか信じられないと思って人を疑って生きてきて、ようやく信じられると思った人とも絶望的な展開になるところ。何を信じたらいいんですか?という問いかけが虚しく空中に投げ出され、その答えが見つけられないまま彷徨う感じが痛々しい。

信じるということにこんなに全身全霊になるのは純粋な気もするけれど、人というのは、そもそも変わるものなんだよ。状況によっては、裏切ることもあるから、それを防ぐには相手の立場からして裏切るメリットよりもデメリットの方が大きいか、メリットがそもそもないという"状況"を作る必要がある。信用する前に頭を使わなきゃいけないし、相手のことを知らなければいけないし、相手の状況についても考慮しなきゃいけない。信頼とは、相手に任せるものではなく、自分で勝ち取りに行くものだと思う。


信じるということに対するアンチテーゼなのかな?太宰は芥川龍之介のことを尊敬していたし大好きだったけど、芥川は最後、自殺する前に聖書を横に置いてやっぱり自分には理解できませんと否定して死んで行ったわけで、

太宰もおそらく聖書に書いてあることに対して、疑問を抱いたのではないだろうか。ただ信じるという行為は、はっきりいって最悪の行為だから。人間関係もそうだが互いが歩み寄り理解し配慮し信頼を作ることで信用は出来上がるのに、その苦しいプロセスなしに相手をただぼけーっと信じますなんて脳死もいいとこだ。価値のあるものは、そう簡単には得られない。得る前の戦いを放棄してはいけない。


でも、その先が見いだせなかったのだろう。
だとしたらこんな世界で何を拠り所として生きればいいんですか?という核が見つからずにいたのかもしれない。
ニーチェ、カミュ、サルトル、レヴィストロースの後に太宰治は生まれてるけど、そこの変革を見てもやっぱり彼には意味をなさなかったのだろうか。


memo
・境界性人格障害
葉蔵の道化の原因になったのが幼少期に受けた性的虐待なのでは?という見方。
トラウマ級の出来事を体験した人が別の人格を作って自分を守ろうとするのは防衛本能として起こりうることだそうです。

ここも社会問題の一端で太宰による問題提起ではないか?


つづき

信用について考えてたんだけど
自分はあいつ(ここでいうあいつとは親友でも恋人でもパートナーでも尊敬する人でもいい、"自分にとっての大切な人かけがえのない人"を指している)と生きていて

あいつが、私のことを見てるから、私はあいつに恥ずかしいような姿は見せられないっていう"その人の視線"を意識して行動することをいっている。

"その人のまなざし"がある限り、その人が例え亡くなっても、自分はあの人に恥ずかしいことはしたくないんだっていう、他者の視線を意識して自分を律する。そうでないと人は、いくらでも悪い方へいくことができるから。どんな浅ましいこともできるし損得で動くようになる。

だから、それをしないやつが信用に値する人間で、だけどそれは本人が日々の生き方で培わないと無理でしょ、っていう。そして、最後の最後に忖度や損得よりも美学を選べるかじゃないの。←信用の本当の深部、はこれじゃないかと思う。


しかもそれは、その人が生きてく中でちいさなことから大きなことまで、どんな選択や行動をして、どんな考えで、物事や人に対してどんなふうな態度をとってるか?という、
普段の小さな積み重ねとその人の人格的な部分にも由来すると思うし。こいつは、クソなとこもあるけど根は優しいしほんとに良い奴なんだよ
って思えるような友達とか、パートナーにたいしてはそうじゃない人には抱けない信用が育まれると思うので。やっぱり、生きてく中で勝ち取るものの一つなんじゃないかなと。

古来から人はそうやって大切なひとの視線を意識して生きてきたんだって。でも、そう思える人がいなくなると、最悪、その代役を神が行うことになる。神の目線を意識して、自分を律することになる。でも、それは歪んでしまうと、地獄に落ちたくないから悪いことはしないだとか、自分は天国に行きたいからいいことをするという“損得勘定”で動く様になる。それは人のクズ化だよ、と言って徹底的にそれを軽蔑してきたのがギリシャなんだってさ。

でも、そんな人の損得を超えた美学的な心の働きは、資本主義のメカニズムによって、破壊されていくだろうということまで予見していたのがマックス・ウェーバーという人です。

...ん〜悲しき運命を辿っていますね、ワタシタチ

世界中どこへいっても通じる美学とは、
例えば困ってる人がいて、助けたとする

Aの人は、困ってる人を助けたらお返ししてもらえるとか、良い人に見られたいとかいう損得が裏にあって助ける人。
Bの人は、そんなの知らないよ。ただ目の前の人が困ってたから助けたって人で、
理由なんかそれだけで十分でしょって人
どちらを隣人にしたいですか?と聞かれればそりゃあ、Bなんよ。

美学は損得を超えるから、信用にも値する。この長く、厳しいプロセスの先にある気がするんだけど。そうじゃなきゃ人なんか信用できないのは当たり前だ...と思う。

 だから、人を信用できません🥲しくしく...みたいな太宰みるとおいおいメソメソしてんじゃねえぞってなる😀本物の太宰にじゃないよ、私の心の中にいる太宰というか、※太宰メンタリティに対してね。

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