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忘れない

爆弾でこの街が爆破される妄想をしなくなって、ただなんとなく虚しさを抱えたままわたしは何も書けなくなってしまった。

2025年の夏、世界が終わるらしいから、若いうちにどれだけ痛々しくいられるかを試したい。本当は、きらきらよりもキラキラと、キラキラよりもギラギラとしていたい。その辺の女の子と同じになりたくない。平仮名多めのほわほわツイート、ネイルを見せるために持たれたぬいぐるみ、わざとカバーを外した文庫本とか、全てを破壊してやりたい。サブカルって言葉を武器にして、全くもってカルチャーになれていない全ての人たちへ、コジコジはずっとコジコジだけど、わたしたちはずっとわたしたちではない。パターン化されたエモ(笑)を冷笑する君たちはメロンクリームソーダの上に乗っているサクランボの、あのなんとも言えない甘みを知らない。

わたしがこんなにイタくてキショい文章を書いてしまうのは、中学の頃の愛読書が『真夜中乙女戦争』だったから。あの小説はバカみたいにどこまでもロマンチックで、ギラギラしていて、とっても眩しい。東京という街をあれほどまで憎めるのが、田舎から出たことがないわたしにとっては羨ましかった。わたしは東京に一度しか行ったことがない。東京タワーを見たことがない。でも、雨が降っている新宿を、あの時歩くことができた。東京事変の群青日和の歌詞って本当だったんだ!と意味の解らないことを思った。キャリーケースを引きながら傘を差して歩くのはとても疲れたけど、わたしは嬉しかった。

大学に入っても、わたしはいつまでもわたしのままで、視界が曲がっても、眠れなくても、わたしはわたしのままで、それがとても救いだと思った。それと同時に呪いだと思った。誰も14歳のわたしを覚えていませんようにと祈った。わたしは寂しかった。

目的込みのかわいいを厭わしく思うときと、もう嘘でも良いからかわいいと言ってくださいと思うとき。泣かない夜と、泣いている夜。その全てのわたしにどんな違いがあるのだろうか。言えなかった言葉があるということを想ってくれない人が嫌いだ。「愛すべきは余白だ」と昔書いたnoteで自分が言っていた。ただつらつらと訳の解らないツイートを連投して、自分の思いをうまく言語化させないまま発散してしまうことが増えてしまった。これ以上、わたしの気持ちをつまらない言葉に簡単に置き換えてしまいたくない。自分自身のわかりやすくて茶化したような表現に、自分自身を蔑ろにされたくない。でも、自分自身を守るのは簡単でも他人を守るのは難しくて、やはり言葉にしないといけない時がある。わたしはいつまでもわたしの言葉がコンプレックスだ。綺麗な言葉を並べて、綺麗なフリをしている。でも、これから何が起こったとしても、絶対に汚い言葉に頼ったり救われたりしたくない。絶対にだ。

若さをアイデンティティにしてはいけないと前から気づいているのに、まだ辞められなくて、それが若いということなんだと思う。わたしだって美しく生きたいから、ロマンチックへの憧れを辞めない。諦めない。死なない。

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