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【哲学対話の記録】どうして嘘って思うの?

昔々、ある村に、羊飼いの少年がいました。 
毎日同じ仕事ばかり。 
退屈した少年は、ひとつのいたずらを思いつきました。 
「大変だ! オオカミが現れたぞ!!」 


"オオカミ少年"は有名な童話ですよね。 
嘘ばかりついていると、本当のことを伝えても信じてもらうことが出来ない。 
そんな教訓が書かれた童話です。 

しかし、人間誰しも嘘をつきます。 
いたずらの嘘、身を守るための嘘、誰かを貶めるための嘘。 
嘘をついたことがない人の方が珍しいと私は思います。 

今日はそんな"嘘"についてのお話です。 

はじめに 

温かさが一気に加速し、 
目に見える景色が青々としてきました。 

気付けばこの地でこの季節の移り変わりを感じるのが4回目となり、 
時間が流れることの早さを実感しています。 

さあ、今日も対話の時間。 
代理ファシリテーターとしての役目も一区切り。 

楽しんで行こう。 

この気持ちを胸一杯に膨らませ、マイクのミュートを解除します。 

先週の対話は下のリンクからご覧になれます。 
実際に自分の身に起きたことから、悪いことの中に見つけた自分にとって良かったこと。 
それをどう捉えるのかについて対話しました。

また、私達 対話空間創造社については下のリンクからご覧になれます。 
お時間のある際に、ぜひ読んでみてください。 

テーマと理由 

今日の対話のテーマ候補は、以下の3つです。 

・表現の責任を負うのは誰か 
・人を個人として理解するとはどういうことか 
・人の行動を嘘と決めつけるときの根拠は何か 

なぜこのテーマにしたのかを聞いてみました。 

表現の責任を負うのは誰か 
「ある授業で、表現の自由の責任があるのは表現者だけではなくて、半分は受け手にあるのではないかという教授の意見を聞く機会がありました。どんなに表現者がわかりやすさを工夫しても、受け手の知識不足や偏見によって、その情報に関して誤った捉え方になってしまう。その受け手がどう捉えるかは、表現者にはコントロールできない部分だ、と。当時私は文章による表現のイメージをしていたけど、ここには芸術系の方が多いから、この責任についてどう思うのかなと聞いてみたくて、このテーマにしました」 

人を個人として理解するとはどういうことか 
「少し前に読んだ本で"私はお母さんという人間じゃない"という台詞に出会いました。それは主人公のお母さんの台詞で、周囲からお母さんという肩書きで呼ばれる中で、お母さんという役割でしか見られていないこと、個人としての感情があることをないがしろにされていることについての不満が現れた台詞だった。私はそれを読んだときに、はじめて相手を肩書きで呼ぶときに無意識に偏見を押し付けていたり、その人の役割だけを見てしまっていたりすることを意識したんだよね。そこで「人を個人として理解する」ことについて、みんながどう考えているのか知りたくなりました」 

人の行動を嘘と決めつけるときの根拠は何か 
「"女の子は何でもかわいいって言うよね"みたいな皮肉を言われがちだなと感じるんだけど、私は本当に心からかわいいと思うからたくさんかわいいという言葉を使ってる。だけど世間一般からはコミュニケーションの一環としてとか、お世辞としてしか見られないことに違和感があって。なんで信じてもらえないんだろうって思う。例えば、芸能人の営業仲良し・不仲だって、本人達に直接聞いたわけではないでしょう? 本人がそうだと言っていることにどうして嘘と言えるのか、みんなはどう考えるかなと聞いてみたくなりました」 

どれも身近なのにどこか複雑。 
とても興味をそそられるテーマです。 

テーマについて理由を聞いた後、 
2分間で参加者にどのテーマについて話したいかを考えてもらいました。 

問いだし 

みんなはどれを話したいのだろう。 
わくわくしながら聞いてみます。 

「個人として理解することについて話してみたいです。単純に話しやすいのもあるけれど、その人にしかない立場や役割って必ずあると思うんです。それこそ、お母さんみたいに。それって他人からもらったある意味アイデンティティのような気がします。その確立も気になるかな」 

「やっぱりその人全てを理解することは難しいと思います。いちばん知っている家族ですら、私でも完全に理解しているかと言われたらそうではないと思います。完全に理解することが難しいからこそ、個人を理解することについて話してみたいです」 

「私も個人を理解することについて話してみたいですね。望んで手に入れた役割ではないかもしれないけど、その役割を果たすという責任はあると思います。私も、友達と接するときの私、家族と接するときの私と、それぞれモードがあって。私の場合は役割がいとうまく動けない。だからこそ、その人本体、その人自体の理解に興味があります」 

なるほど、確かになあ。 
参加者の話す理由を聞きながら、ちょっと自分なりに考え始めてしまったり。 

「私は嘘と決めつける根拠ついて話してみたいです。私は関西人なんですけど、関西人って話を盛ってしまうことが多いんですよ。でも自分の中で、話を盛ることと嘘をつくことは違うと思っているんです。でも、もしかしたらそこすら勘違いなのかもと思って、話してみたいと思いました」 

「僕は迷っていて、個人を理解するか嘘の根拠かの二択です。共通として、どちらも伝達の力が関係していると思うんですよ。誰かが発した言葉がどのように増幅してどう相手に届くのか。増幅した言葉の力がどのように影響するのか気になりますね」 

いやあ、面白い。 
前回とまた違う面白さが目前に広がっている。 

3つのテーマにプラスして、2つの新しい問いが生まれました。 

・それぞれに与えられた役割や評価の中でアイデンティティはどう確立されるのか 
・『話を盛ること=嘘をつくこと』なのか 

リアクション機能を使って、ひとり1票、最も話したいことに手を挙げてもらいます。 

そうして今回選ばれたのは、

<『話を盛ること=嘘をつくこと』なのか>

という問いです。 

対話スタート 

「まずは端的に聞きます。『話を盛ること=嘘をつくこと』だと思う人はリアクションで教えてください」 

オンラインの利点、リアクション機能をフル活用していきます。 
使えるものは使わないと損ですからね。 

リアクションで答えてくれた参加者に理由を聞いてみます。 

「僕にとっての嘘って、事実と異なることをいうこと指すんです。場を楽しませるとか、盛り上げたいとか、そういう目的があるとはいえど、話を盛って事実と異なることをいっているのであれば、それは嘘だと思います」 

「嘘は嘘でも、場を盛り上げたいとかは楽しい嘘というジャンルに入るかな。悪い嘘をついているわけではないから良いけれど、言霊を考えると、楽しい嘘と言うよりかは、話を盛るという表現にした方が世界は上手く回るかも」 

『話を盛ること=嘘をつくこと』ではないと感じている参加者の意見はどうでしょうか。 

「嘘は傷つくものというイメージがある。私が話を盛ってしまうのは、やっぱり楽しみたいとか明るくしたいとか、そういう気持ちから来ているからであって、決して誰かを傷つけたいからではないから、嘘とは違うかな」 

「事実の受け取り方は価値観に左右されますよね。何というか、盛った話を聞いてから実際にその状況になったら、その話を盛った通りの印象を受けるかもしれない。嘘じゃないと思うかもしれないなあと思って。ちょっと話は違うかもしれませんが、一概に事実と異なることが全て嘘と言えるのかなあとも思いました」 

もしかしたら嘘も、心のものさしで測ってしまっているのかな。 

前回の対話で、起こった出来事に対しての受け手の捉え方に触れた私はそんなことを思いました。 

参加者の意見を一通り聞いた私は、こんな質問。 

「みんなの話を聞いて思ったことはふたつあって。 

ひとつは、楽しませるための嘘と人を悲しませる嘘の判断基準は何か。 

もうひとつは、例えば、地元の人気のスーパーがあり、平日昼間でも混み合うというひとつの確定した事実があるとしましょう。しかし、通い慣れたAさんは今日は空いていると感じ、初めて訪れたBさんはとても混んでいたと感じた。どちらも双方にとっては事実ですよね。こうなった場合、嘘つくことや話を盛ることの基準はどうなるのか。 

そこを聞いてみたいと思いました」 

「僕ちょっといいですか?」 
さっそくお返事が。 

「そもそも事実って2種類に分けられると思うんです。 

ひとつは、感情に基づく形容詞が根拠の事実。例に挙げてくれたように、多いとか少ないとか、事実ではあるけれど自分自身が根拠となっている。 

そしてもうひとつが、物質的な事実。赤いとか黄色いとかいくつあるとか。例えば、新作のペンの色が青なのに赤だよっていうのは明らかな嘘だと思うんです。でも、新作のペンのデザインはいまいちだったけどまあかっこよかったよっていうのは、自分に基づいた事実だから、嘘のようで嘘じゃないみたいな。この問題の核心かなと思います」 

確かにそうだ。 
スーパーの人数多い少ない問題も、元を辿ればAさんBさんの感情が根拠。 

受け手からしたら判断材料がとても曖昧になっているなと感じました。 

「私も『話を盛ること=嘘をつくこと』とは言い切れないと思っていて。話を盛るという行動って、物質的な事実を盛りたいわけではなくて、最終的に言いたいことをより印象的に伝えるためにしていると思うんだよ。さっきのスーパーを例にすると、何人いたかじゃなくて、混んでいたことを伝えたくて大げさにする。だから、伝えたいことから外れていないことをルールとするなら、その伝えたいことから外れてしまったら話を盛るの範疇を超えて嘘になる、と言えるかな」 

うわあ、すごいな… 
シンプルに納得してしまいました。笑 

霞んでいた視界が一気に晴れ渡るような爽快感。 
誰が決めたわけでもない仮定の中の話ではありますが、 
自身の質問に対してこんなにクリアになるとは思っておらず… 

対話、恐るべし。 

この大きな問いを出してくれた参加者にも聞いてみました。 

「それぞれ違うと思うんだけど…なんか自分でもよく分からなくなってしまった…」 

分かる分かると笑顔でうなずく。 
対話の流れは時々激流で、置いて行かれているのかついていけているのか分からない。 

「嘘は傷つくものって言ったけど、マイナスに捉えすぎだったかもって今思った。でも、話を盛るってことは、自分が体験した出来事に対して使うことがほとんどだから、そのことに関しては嘘をつくことになるのかなあとも思ったり。確かにって感じだけど」 

体験したことないことに関して体験したと言ったら、確かにそれは嘘になる。 

あれ、とふと思い、こんな質問。 

「さっきのスーパーを例にしますね。そのスーパーに行ったことのないCさんが、Aさんから、そのスーパーが空いていたことを聞く。その後、Cさんは友達のDさんに、Aさんの話を少し誇張して伝えたとしましょう。この場合、Cさんは話を盛ったことになりますか?それとも嘘をついたことになりますか?」 

参加者から質問。 
「そのスーパーの人数はどれくらいですか?」 

「そうですね…行き慣れているAさんが少ないと捉える人数で、初めて行ったBさんが多いと思えるくらいの人数にしましょうか。 

じゃあ、Aさんは自身の経験から、Cさんに"ガラガラ"という表現を使ったとしましょう。そのスーパーに行っていないCさんはAさんの経験を知らないまま、友達のDさんに"本当に人もいなくて~"みたいな感じに伝えた、という事実もつけましょう」 

「それってねつ造にあたるんじゃないかなあ」 

お、返事が返ってきた。 

「Cさんが普段のスーパーのことを知らないで、Aさんの話を自分が行ったかのように話すのは完全にねつ造かな」 

ねつ造、すなわち嘘。 

ひとりの参加者はこの事例は嘘と捉えました。 

他の参加者にも聞いてみますが、考えがまとまらないのか静かです。 

それなら、リアクション機能。 
ここで使わずいつ使う。 

嘘だと思う、話を盛るだと思う、曖昧だの3種類にリアクションしてもらいました。 

曖昧だと答えた方が意外と多く、考えを聞いてみることにしました。 

「この話聞いたとき、なぞなぞ聞いているみたいだなと思って」 

素直な考えに思わず笑みがこぼれてしまいました。 

「騙そうと思って口から出た言葉を嘘として、騙そうとか思わずに事実と異なることを話すことを別の概念と捉えるとして。でも結局、話し手が話を盛ったまたは嘘と認識して話すかそうではないかという2択と、あとは、受け手がそれを嘘なのかそうではないのかと捉えるかという2択があるという話かなと。 

話は戻るけど、可愛いだってめちゃくちゃ誇張した結果、そういう皮肉めいた認識が広まっただけかもしれないし。結局のところ、よく分からんという、ね」 

おおおお、なるほど。 

さきほど登場させたCさんDさんも、話し手と受け手の関係であり、 
CさんはDさんそれぞれに、事実の解釈があります。 

話し手と受け手がもつそれぞれの2択は、 状況によってさまざまに選択されます。 

その組み合わせによってこの話題の方向性も変わってくるから、 
結局のところは分からない。 

実に面白い。 
まるでガリレオシリーズの湯川先生になった気分です。 

話を盛るに当てはまると考えた参加者にも聞いてみました。 

「この場合、嘘にしろ話を盛っているにしろ、人が多い少ないという客の数について話していると思うんですが…多いとか少ないとか、Cさんの度合いの違いかなと思って。でもその多い少ないガラガラに"嘘でしょ"と断言することは出来ないかなって。"行ってないでしょ"と断言することは出来るけど。 

度合いを表す言葉するどの日本語を選んだのかによっても、行ってないということに関しては嘘になるけれど、思っていることに関しては度合いだから否定が難しい。だから、話を盛るに当てはめてもいいんじゃないかなと思いました。 

あともうひとう。感情って不変の事実ではないじゃないですか。行く前と行った後だと、何かしらの感情の変化ってあるはずで。不変ではないから、話を盛るに当てはまるパターンが多いのかもと思いました」 

ふと時計を見ると終了時刻3分前。 

とても名残惜しいけれど、今日の対話はここまでとなりました。 

対話を終えて 

感想をふたりほど聞いてみました。 

「とんでもなく深いとことまで話が進んで、『話を盛ること=嘘をつくこと』なのかという認識よりも大事なことが見えてきたんじゃないかと思います。今日も面白かったです!」 

「いろんな考えが聞けて良かったなあって思います。次、自分が話を盛っちゃったときにこの対話が頭をよぎっちゃうのかなあとも思いました笑」 

〈『話を盛ること=嘘をつくこと』なのか〉という問いが、 
まさか事実の基準や話し手と受け手にまで派生していくなんて。 

とんでもなく濃い時間だったと、私も今回の対話を振り返ります。 

終わりに 

事実は揺るがないもの。 
でもいざ蓋を開けてみると、その揺るがないという保証はどこにもなかった。 

ひとくちに"嘘"といっても、 
どこを判断材料とするかで、嘘になったり嘘じゃなくなったり。 

もしかしたらオオカミ少年のことを 
嘘つきじゃないと捉えていた村人もいたかもしれませんね。 

今回の対話の中で仮定として登場した基準たち。 
読んでくださった皆様がそれをどう考えてくださるのか、 
どう発展させてくださるのか。 

それを楽しみにしながら、今日はここで筆を置こうと思います。 

長くなってしまいましたが、 
今週も読んでくださりありがとうございました! 


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