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夜は寝るもの?──映画ファンの「ハレの場」としてのフェイドイン・マンスリーレイトショー③

2023年12月21日(木)~12月26日(火)にかけて、Galleryそらにて開催している展覧会「見る場所を見る3」の第2部「夜は寝るもの?──映画ファンの「ハレの場」としてのフェイドイン・マンスリーレイトショー」の解説文を掲載します。前回までの解説文は以下からご覧ください!

また、展覧会第1部解説文「イラストで見る、倉吉市内・郡部の映画館&レンタルビデオショップ史」も以下のリンクより、併せてご覧ください。

そして、2024年1月26日(金)に開催されるオンラインイベント「全国映画資料アーカイブサミット2024」第5部「映画資料最前線―映画館文化発掘の試み」に登壇させていただくことになりました。
「見る場所を見る」で確立したイラストレーション・ドキュメンタリーを中心に、これまでの活動を報告します。こちらも奮ってご参加ください!
*定員500名(事前登録制)・無料・1/25(木)17:00申込締切


⑤娯楽・レジャーの多様化

再び全国的な状況に目を向けると、映画のライバルとなるのはテレビだけではありませんでした。

テレビが普及し始める1960年代は、日本経済が高度成長を遂げることで、社会資本の整備も急速に進んでいきます。そうした中で、「レジャー」が大衆の新たな娯楽として台頭。それまでの映画やラジオ、テレビでの野球観戦といった受動的な娯楽から、旅行やゴルフ、スキーといった、実際に身体を動かす体験ができる能動的・健康的な娯楽へと、人々の興味が徐々に移行していきました。仮想の移動を味わうことができる映画に対して、身体の物理的な移動を伴うレジャーが娯楽としての関心を集めていくことになったのです。

1970年代後半から90年代前半まで絶大な人気を誇ったスキーを例に挙げると、高速道路や東北・上越新幹線といった交通網の整備がブームを後押ししたことや、JR東日本や東急をはじめとする企業が多角経営の一環としてスキー産業への参入を図ったこと、また当時は誰もが雑誌やテレビで情報を得る時代であったため、現在よりもブームが画一化する傾向があったことなど、複数の要因によって、スキーが大衆人気を獲得することになりました。

そして1980年代には、映画のもう一つのライバルとして、レンタルビデオ店が登場します。レンタルビデオは映画館よりもラインナップが豊富であり、レンタル期間内であれば、自宅のテレビでいつでも手軽に何度も繰り返して視聴することができました。

こうした娯楽の多様化によって、映画人口が減って行き、それに伴って映画館数も減少。1989(平成元)年には過去最低の入場者数を記録し、全国の映画館数も遂に2000館を切ってしまいます(『キネマ旬報』1990(平成2)年2月号)。もちろん、映画産業が何も手を打たなかったわけではありません。1990年代は従来の1館1スクリーンから館内に複数のスクリーンを備えたシネマ・コンプレックスに移行する時期であり、斜陽化したと言われる映画産業においても、大きなスクリーンや最新の音響設備など、観賞環境が整った大劇場における観客の吸引力は凄まじいものだったと言われています。しかし、シネコンが誕生しても映画人口が総体として増えることはなく、地方の映画館は厳しい経営体制を強いられたままでした。


⑥県内に広がるレイトショー

娯楽の多様化による映画人口の流出を少しでも抑えるため、映画館や各配給会社は経営方法の試行錯誤を続けました。特に鳥取県は、そもそもの人口が全県最少ということもあって、映画館経営は困難を極めるものでした。県内の映画館はユニークな試みで何とか観客を惹きつけようと奮闘し、そうした試みの1つが、冒頭で紹介したフェイドインの「マンスリーレイトショー」だったと言えるでしょう。

フェイドインの直接的な前身である南吉方1丁目の「世界館」は、1977(昭和52)年10月に川端のセントラル会館から立ち退いたニュー世界が、1978(昭和53)年7月に新築移転してオープンした映画館です。この当時(1973〜1978年頃)は鳥取駅周辺の高架化工事が行われていたため、世界館も、市内の新たな賑わいを創出できる場所として開発が進んでいた駅南地区から再出発を果たすことができました。移転当初の世界館は、まだ夜間興行に対する懐疑的な立場を崩していませんでしたが、観客の声を受けて方針を転換。1978(昭和53)年7月9日付の『日本海新聞』で「「夜中はねるもの」と永らくナイトショウをやりませんでしたが、車で殺到される方々の実体を見て断然毎土曜の夜実行致します」と宣言をして、週末に限定した夜間興行を解禁することになりました。

『日本海新聞』1978年7月9日付
当時の世界館・館主の中村俊晃氏による挨拶が新聞内に掲載された。

1991(平成3)年に世界館がフェイドインに改称してからも、夜間興行は毎月恒例のレイトショー企画として継続します。また倉吉市でも、有限会社世界館が経営する世界館の姉妹店「倉吉シネマエポック」が、1996(平成8)年の開館以来、フェイドインと連動したレイトショーを毎月実施した記録が残っています。日程をずらして、両館で同じ作品が上映されていました。

また夜間興行に限らず、各映画館は独自の色を出すために、作品選定にも工夫を凝らしていました。例えば米子市の米子ビブレ東宝では、東宝の古い特撮映画をリバイバル上映したり、当時映画館のなかった倉吉市でアニメの出張上映を行なっていたそうです。当時の安藤公一支配人は「映画館も個性を持たないとダメ。そのためには新作だけでなく、旧作の上映や、あるテーマに沿って上映作品を選ぶことも必要。指をくわえて待っているのではなく、何かを観客に向けて仕掛けていかなければ」(『日本海新聞』1996(平成8)年6月22日付)と語っています。


⑦映画館が提供する「ハレ」

現代を生きる私たちの生活がNetflixやAmazon PrimeといったSVOD(定額制の動画配信サービス)に取り囲まれているように、レンタルビデオが台頭して一般家庭でも親しまれるようになった1990年代当時も、映画を見る体験そのものはすでに特別なものではなくなり、日常生活の一部に組み込まれていたと考えられます。テレビやビデオ、レジャーといったライバルに対抗するために、フェイドインや米子ビブレ東宝などの映画館は、あらためて「映画館」とはどのような場なのかを問い直すことを迫られ、自らの武器を最大限に活用する方法を模索しました。

そこでフェイドインは、日常の「ケ」から離れることができる「ハレ」の時間としてレイトショーを企画すると同時に、その日程を「平日の夜」に設定することによって、基本的に休日に楽しむものであるレジャー・観光よりも気軽に「ハレ」の時間を楽しめるようにしたのではないでしょうか。レイトショーの観客は、仕事終わりからの2、3時間、束の間だけスクリーンに投影される物語世界に没頭して、日常から離れることができたのです。

またレイトショーには、鳥取に暮らす人びとにとってもう1つの非日常性があります。それは、地方では見る機会の限られる作品を映画館の大きなスクリーンで観賞できる点です。フェイドインは開館当初から、レイトショーで上映する作品の基準を「地味だが感度の高い作品」(『日本海新聞』1991(平成3)年7月12日付)や「地方では上映が難しいアート系の作品」(『日本海新聞』1991(平成3)年7月17日付)と設定し、普段の興行とは趣向を変えた映画を提供することを企画の狙いとしていました。県内各地で映画館が減少し、ますます映画鑑賞の機会が少なくなると思われていた矢先に誕生したフェイドインは、その名の通り、まさに鳥取の映画文化に再び光をもたらして、日常から離れた特別な空間・時間を提供する「ハレの場」だったと言えるでしょう。

「見る場所を見る3」第2部 展示会場


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