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夜は寝るもの?──映画ファンの「ハレの場」としてのフェイドイン・マンスリーレイトショー②

2023年12月21日(木)~12月26日(火)にかけて、Galleryそらにて開催している展覧会「見る場所を見る3」の第2部「夜は寝るもの?──映画ファンの「ハレの場」としてのフェイドイン・マンスリーレイトショー」の解説文を掲載します。前回の解説文は以下からご覧ください!

また、展覧会第1部解説文「イラストで見る、倉吉市内・郡部の映画館&レンタルビデオショップ史」も以下のリンクより、併せてご覧ください。

そして、2024年1月26日(金)に開催されるオンラインイベント「全国映画資料アーカイブサミット2024」第5部「映画資料最前線―映画館文化発掘の試み」に登壇させていただくことになりました。
「見る場所を見る」で確立したイラストレーション・ドキュメンタリーを中心に、これまでの活動を報告します。こちらも奮ってご参加ください!
*定員500名(事前登録制)・無料・1/25(木)17:00申込締切


③日本における夜間興行の歴史——60年代のオールナイト興行ブーム

ここで、鳥取から日本全体に視野を広げ、レイトショーナイトショーオールナイト上映など映画の夜間興行の歴史を振り返ってみたいと思います(一般的にはレイトショーよりナイトショーの方が遅い時間に行われるとされていますが、時代や場所、劇場によっても様々な時間設定の考え方があるため、ここでは夜の時間帯に行われる上映を総称して「夜間興行」とします)。

そもそも夜間興行はいつ頃から始まったのでしょうか? その歴史の始まりは定かではありませんが、新聞記事などを調べてみると、1937(昭和12)年5月22日付の『東京朝日新聞』に「観衆を魅了した戴冠式の本社映画 昨夜、三ヶ所で公開」「神風歓迎ナイトショウ」という記述が見受けられます。また同年8月31日付の『東京朝日新聞』には、「日劇のナイトショー」が行われて「座席は既に前売りで満員、當夜切符を買つた客は全部立ち詰めといふ盛況」と当日の様子も記されており、昭和初期から映画舞台夜間興行が人気を集めていたことが窺えます。

戦後、1950年代半ばに日本の映画興行は最盛期を迎えますが、同時期に出現したテレビによって、映画館から観客の足が少しずつ遠のいていくことになります。しかし、夜間興行には変わらず人が集まっていたようで、1960年代末には次のような記事が書かれていました。

「花ざかり深夜映画館…土曜の夜、映画街のネオンはひときわまぶしい。それも深夜、飲食店の灯が一つ、二つと消えるころになって、そうだ。東京・新宿の歌舞伎町かいわいなど、昼とまごうにぎわいぶり。大都市から地方都市へ、それは、いつのまにかすっかり根を張ってしまった。固定客に固定収入──興行形態としてももはや常識になったというが、一皮むけば、「成人映画」という名のピンク映画とヤクザ映画の全盛。映画界の無節操ぶりがそれに拍車をかけているようだ。」

『朝日新聞』1968(昭和43)年11月29日付

「深夜映画また盛況…都内の映画館は現在約430館。土曜日のオールナイト興行は昨年あたりから異常にふえ、盛り場では洋画のロードショー、封切館以外のほとんどで実施している。…入場者のピークは午前2時ごろ、夜の仕事を終えてからの客がどこでも8割以上になる。バー、飲食店、旅館やホテルの従業員、運転手、学生が主な客層という。」

『朝日新聞』1968(昭和43)年12月29日付

当時の映画館ではオールナイト興行が流行していました。仕事を終えてからの観客が全体の8割以上を占めており、盛り場では洋画のロードショーが頻繁に行われていたとされています(『朝日新聞』1968(昭和43)年12月29日付)。映画産業の斜陽化が囁かれ始めた1960年代後半でしたが、このように夜間興行は、普段の映画鑑賞とも異なる特別な体験を味わえる場として人気を博しました。


④鳥取における夜間興行とその否定——「夜はねるもの」

それでは、鳥取におけるフェイドイン以前の夜間興行の実態は、どのようなものだったのでしょうか。ここで取り上げるのは、鳥取市内の川端通りにかつて存在した「世界館」です。フェイドインの前身にあたる映画館で、開館したのは1914(大正3)年のこと。鳥取県内で最も長い歴史を持つ老舗映画館として、名前や場所を変化させながらも存続し、現在は栄町の「鳥取シネマ」として興行を続けています。

栄町にある鳥取シネマ(2023年11月撮影)

世界館には、1952(昭和27)年8月から1985(昭和59)年6月までの期間、鳥取市内で上映された作品が映画館ごとに記載されている興行日誌が存在します。その記録を見ると、世界館は1953(昭和28)年から少なくとも1963(昭和38)年までは、7月前後から10月頃までの決まったシーズンに夜間興行を行っていました(残念ながら1963(昭和38)年7月から1971(昭和46)年11月までの興行記録は欠落しており、残されていません)。同様のことは他の映画館でも行われていたようで、例えば1970年代には、鳥取東映オールナイト上映が行われていたことが当時の新聞広告から明らかになります。

大都市同様、1960年代初頭の鳥取も映画産業は非常に盛んで、市内だけで9館の映画館が並立していました。しかし斜陽化の波は鳥取にも押し寄せて、60年代末を迎えると映画館は徐々に衰退の道を辿ることになります。そうした逆境の中でも、世界館は新築したセントラル会館に移転して「ニュー世界」と改称し、映画館としては規模を縮小しながらも喫茶レストラン「コーチャン」を併設したり、車社会の急速な進行に対応して無料駐車場を完備させたりと、積極的な経営を展開。「時代のニーズに応える映画館」の名のもと、新聞広告を大々的に出して健在をアピールしていました。

ただし、この時期の世界館(ニュー世界)は夜間興行に対しては否定的な立場だったようで、以下のような文章を添えた広告が数多く見受けられます。

「新時代にピッタリ!…夜中はねるもの オール・ナイトは絶対やらぬ セントラル会館ニュー世界」

『日本海新聞』1973(昭和48)年12月5日付
同様のキャッチコピーは会場内にも設置!

ニュー世界はレイトショーを行う代わりに、名作のリバイバル上映を行ったり、大手の配給会社に限らない作品編成を考案したりと、現在のミニシアターにも通じる取り組みを鳥取でいち早く行い、様々な工夫を凝らして映画文化を盛り上げようとしました。しかし映画産業全体の衰退を食い止めることはできず、1977(昭和52)年10月には経営難を理由にセントラル会館を立ち退くことになります。


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