個性への執着を断つ

仏教の三法印に諸法無我というものがある。

すべての存在が相互に干渉しあって成立しており、それ自体に恒常的な「自我」は存在しない。なので過去への執着を捨てて前向きに生きようという考え方だ。

そもそも「自我」とは何だろうか。広辞苑によると以下を意味する言葉とされている。

①〔哲〕認識・感情・意志・行為の主体としての私を外界の対象や他人と区別していう語。自我は、時間の経過や種々の変化を通じての自己同一性を意識している。身体をも含めていう場合もある。↔他我↔非我。
②〔心〕
㋐意識や行動の主体を指す概念。客体的自我とそれを監視・統制する主体的自我とがある。
㋑精神分析の用語。イドから発する衝動を、外界の現実や良心の統制に従わせるような働きをする、パーソナリティーの側面。

アイデンティティを持ちたいと考える人は多い。大抵それは、承認欲求や尊厳欲求を満たすためである。かくいう僕もその1人だ。

そんな人たちに1つ辛辣な質問をしようと思う。

「あなたたちは、承認欲求に囚われて幸せから遠ざかっていないか?」

確かにアイデンティティや個性という類のものがある人はより幸せに近づく。人から認められ、承認欲求が満たされやすくなるからだ。

だがそれは微小的というか、マクロに考えると全く的を射ていなくて往々にして人は、アイデンティティに囚われて多大な時間や精神をすり減らしてしまうことがある。

しかも承認欲求には、満たしても膨張し続けるという無限性がある。

人生は楽しんだもん勝ちだ。

嫌いなことへの惰性な継続はゴミである。

承認欲求を満たすために嫌いなことをやり続ける人と、好きなことを毎日楽しんで生きている人だったらどちらがより幸せか考えてみて欲しい。

(ていうか、毎日楽しんだ結果、認めてくれる人が増えて満たされるのが承認欲求や尊厳欲求だと個人的に思う。)

承認欲求に囚われている人は主に、何かを頑張っても報われなかった経験がある人だと思う。

他人から承認されたい気持ちはよく分かる。でもそれは結果的に、他人の評価を軸として生きているだけで、自分の人生を生きていない。自分が軸にない努力は後悔を生むだけだ。

お前の人生の価値はお前が決めろ。

人生をより楽しく豊かな方向に舵をきれるのはお前だけだ。

その自我の奥にいる「お前」が何かに束縛されている程もったいないことはない。

究極的にはどんな人生を生きたって等しく価値がある。

ならば人生の主は、自身であるべきだと俺は思う。


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