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【小説】ロックバンドが止まらない(21)
すると、神原には今一度観客の様子が目に飛びこんでくる。
一〇〇人前後の観客の、一人一人の顔が神原には克明に見える。両親やクラスメイトといった見知った顔もいるが、大多数は神原が直接的には知らない人々だ。
楽しみにしている様子の人もいたが、「早く始めろよ」と言わんばかりの表情の人も多くて、神原には息が詰まる思いがしてしまう。
だけれど、ここで神原が声を出さないと何も始まらない。
だから、神原は深く考えるのをやめて、勢いに任せてマイクに向かって口を開いた。
「こんにちは! Chip Chop Camelです! 今日はよろしくお願いしまーす!!」
恐れを振り払うかのように、自分が今持てる最大限の声量を意識して、神原は観客に呼びかける。
その声は自分がイメージしていたよりも少し小さかったけれど、それでも観客は神原の呼びかけに拍手で応えてくれた。一度声を出したことで、心なしか緊張もほんの少しだけ軽くなった気がする。
今なら演奏ができる、気がする。
観客の拍手が鳴りやんだタイミングで、久倉がマイクを通さずとも観客席に聞こえるような声で、「ワン、ツー、スリー、フォー!」とカウントを発する。それを合図に、神原たちは一斉に演奏を始めた。
今日のライブで最も大切な瞬間は、一曲目が始まる瞬間だと神原たちは考えていた。一曲目の出だしで音を揃えることを、神原たちは一番重点的に練習している。
そして、練習の甲斐あってか本番でも見事に音は揃った。最初のコードを鳴らしただけなのに、神原にはまるで視界が開けたかのような感覚がある。イントロの今は、まだギターを弾くことに集中できる。
もちろん、まだ緊張は解けていない。ミスをしたらどうしようという不安は、相変わらずあり続ける。それでも神原はアンプを通して体育館中に広がる音に、感動を覚えずにはいられなかった。雰囲気も少しだけ明るくなったような気がする。
ステージが持つ万能感に、神原は次第に当てられつつあった。
だけれど、それは最初のほんの数秒だけで、神原にはすぐに演奏がズレ始めたことを感じてしまう。
まず園田のベースと久倉のドラムが、微妙に噛み合っていないのだ。園田の方が若干速い。一拍にも満たない短い間隔だが、それでもズレていることが神原には、はっきりと分かってしまう。
それはじわりじわりと神原たちの調子をも狂わせていき、まだ歌が始まっていない状況でも、自分たちのちぐはぐな演奏が、神原には居心地悪く感じられてしまう。
当然、誰もが一生懸命演奏しているし、演奏自体にミスはない。だけれど、テンポがてんでバラバラだった。貸しスタジオでは、普通にできていたのに。
それは全員が前を向いて演奏しているからということもあったが、今までできていたことができなくなっていることに、神原はステージの怖さを思わずにはいられない。
自分たちの演奏のズレは、観客にも伝わってしまっているのだろう。ライブが始まったばかりだということを差し引いても、観客席は盛り上がりに欠けていた。
自分たちを見る目が断罪するかのようで、神原には歌い出すのが恐ろしくさえ感じられてしまう。このまま坂を転げ落ちるように、自分たちの演奏は悪くなっていく一方だという予感がしてしまう。
神原が内心では、涙を浮かべたくなるような思いで演奏している最中だった。久倉がドラムを叩くのを止めたのだ。バンドの土台であるドラムが止まったことに、神原たちも演奏を止めざるを得なくなる。
やがて演奏は完全に止み、観客席にはざわざわと戸惑いの声が広がる。
神原たち三人の目は、自ずと久倉に向いた。なぜ演奏を止めたのか、神原には責めたい気持ちが生まれて、それは視線にも現れてしまう。
きっと今体育館にいる全員の目が、久倉に向いていたことだろう。
不満と戸惑いと慮る感情。それらがごちゃ混ぜになった空気の中で、久倉はふと口を開けると、声を出して笑った。
久倉の笑い声は、バンドを組んでから聞いたことがないほど大きく、体育館中に届いてかすかなカオスさを生む。
久倉の突然の言動の意図が、神原にはまったく掴めない。こんな空気の中で、笑っている場合かとも思う。
だけれど、久倉はまるでツボに入ったかのように笑い続けていて、その姿を見ていると、伝播したかのように神原までおかしさを感じてしまう。いったん微笑んでみると、自分の中で堆く積まれた何かが小さく揺れた。
確かにこの状況は、笑いでもしなければやっていられないだろう。神原も久倉と同様に、声を出して笑った。
すると、その何かが音を立てて崩れ去っていく感覚が、胸の中で沸き起こる。
二人の笑い声が移ったのか、園田も声を出して笑っている。与木も控えめにだが笑っているのを、神原は目撃する。
ステージ上で急に笑い出した四人は、観客に壊れたと思われても仕方がなかった。実際、観客席に渦巻いていた戸惑いの声はすっかり鳴りを潜め、今では四人の様子を半ば呆然としながら見つめている。
神原たちは、しばらく笑い続ける。司会の二人や実行委員が舞台袖から心配そうに見つめていたけれど、神原には気にならなかった。
今、自分たちは笑うことができるほどの精神状態になっている。それだけで十分だった。
「よっしゃ。じゃあ、もう一回やるか」
頃合いを見計らったかのように、久倉が言う。神原たちも頷いて、四人は再び前を向いた。
改めて見ると、神原には観客の姿が少し小さく見える。先ほどまでは自分たちの間近に迫っている感覚があったのに、今は程よい距離感を保てている。
ステージに立ったばかりの自分と、今の自分は違う。具体的に何がとは言えないが、神原ははっきりとそう感じていた。
「ワン、ツー、スリー、フォー!!」
久倉がカウントを発し、神原たちは同じ曲を、もう一度最初から演奏し始める。二度目の演奏でもきっちりと出だしは揃い、神原たちにパワーを与える。
でも、先ほどの演奏ではここから、それこそ音を立てるように崩れてしまっていた。その苦い記憶は、まだ神原の中で鮮明に残っている。
だけれど、今度は神原たちは出だしに続いてイントロでも、演奏を合わせることができた。
少なくとも声を出して笑ったことで、緊張が一部分でも解けてきたことを神原は感じていたし、きっと他の三人もそうだったのだろう。演奏はいい意味で練習通りで、神原の心は弾んでいく。
体育館という貸しスタジオよりも開放的な空間も、神原たちのメンタルにプラスに働く。
観客席はまだ神原たちが突然笑い出したことによる戸惑いを引きずっていて、さほど盛り上がっていない。
でも、それでも神原には構わなかった。初めてライブをするバンドがいきなり盛り上げられるわけがなかったし、それは演奏をいったん中断し、仕切り直した状況ではなおさらだ。これからいくらでも盛り上げていけばいい。
マイクに口を近づけていく。神原には今の自分たちなら、それができるような気がしていた。
神原は歌い出す。喉のコンディションは悪くはなかったし、ギターも何度も練習したので、十分に弾けている。
当然それは高校生レベルではという話だったが、でも神原はギターを弾きながら歌うという二つのタスクを同時にこなしていることに、充足感を得つつあった。
一曲目として演奏しているハイスピの曲は英語詞だから、もしかしたら観客には馴染みが薄いのかもしれない。
でも、複数の観客がリズムに乗るように身体を揺らしているのが見えたから、神原たちも当てられたかのように演奏に熱がこもっていく。
サビに入ると神原はギターを演奏しながら、自分にできる限り声を張り上げた。うまく歌おうという意識は二の次になっていて、今はとにかくこの場を楽しみたいという思いが強く、それは歌にも出ていた。
実際のライブのように、手を振り上げてくれる観客はまだいない。でも、観客一人一人の表情から戸惑いは少しずつ消えつつあって、純粋にライブを楽しもうという表情に移行しつつあるのが、神原には心地よく感じられた。音が体育館中に広がっていっている状況も手伝って、爽快感すら覚える。
観客の前に出ることは怖いことだと感じていたけれど、それだけではないと神原は早くも思え始めていた。
最後までしっかりとミスなく弾き切って、神原たちは一曲目の演奏を終える。
一斉に演奏を終えると、一拍置いてから観客から拍手が聴こえてきた。それは小さく、まだ少し遠慮がちではあったものの、神原たちを労い勇気づけるものには違いなくて、神原はまだライブが始まったばかりなのに、思わず表情を緩めてしまいそうになる。
ちらりと与木や園田の表情も横目で捉える。二人とも澄んだ表情をしていて、まだ緊張は完全に抜けきっていないのだろうけれど、それでも悪くない精神状態にあることが神原には窺えた。おそらくは後ろにいる久倉でさえも。
控えめな、それでも確かな拍手を存分に味わってから、今度は園田がリフを弾き始める。二曲目に突入する間際、神原はもう一度客席を垣間見た。
目に入った甲斐甲斐しい表情をしている両親に、神原は心の中で頷く。
そして、タイミングを合わせるようにして、二曲目の演奏を始めた。心なしか音楽に乗っている観客も増えてきている。
神原は再びマイクに口を近づけた。三〇分間のライブは、幕を開けたばかりだった。
(続く)
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