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スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(163)


前回:スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(162)





「似鳥くん、今日も学校お疲れ様でした。勉強に練習に忙しいなか、先週に続いて来てくれてありがとうございます」

 丁寧に話し始めた波多野に、晴明もおずおずと頷いた。波多野の横に立つ上條が柔らかな表情を向けてきたけれど、晴明に微笑むほどの余裕はない。

 波多野は先々週入院してから、まだ病院での生活を続けていた。当然気を揉むし、晴明にとっては全く歓迎できる状況ではない。

「確か先週は学校のテストがあったんですよね。どうでしたか? うまくいきましたか?」

「は、はい。何とか平均点は取ることができました。友達にも教えてもらったおかげで」

「そうですか。日芸に進むには、成績面での条件も必要になってきますからね。その調子で頑張ってください」

 優しい目で言う波多野に、晴明ははっきりとした返事ができなかった。どうしても、「は、はい」と煮え切らないものになってしまう。

 それもそのはず、今日は晴明は自ら進んで来たわけではない。波多野に話があると呼ばれて来たのだ。

 状況から判断するに前向きな話だとは思えなくて、晴明は思わず縮こまってしまう。悪い予感に身体が震えそうだ。

「ところで、似鳥くん。今もちゃんとピアノの練習はできていますか? 音源だけでは、どうしても全ては分からなくて」

「は、はい。何とか少しずつ進められています。新しく取り組む曲も少しずつですけど、モノになってきている感覚があります。このままいければ大丈夫かなと」

「それはよかったです。なかなか指導ができなくて不安で。本当にこんな状態ですみませんね。できれば今すぐにでもここを離れて、似鳥くんの家まで行ければいいのですが」

「いえいえ、お気になさらないでください。波多野先生は今が大事な時期なんですし、今はゆっくりお休みなさってください」

 繰り返し謝る波多野に、晴明は大して気にしていないふりをした。

 でも、それは全く本心ではなく、今だって波多野に自分のピアノを見てほしくて仕方がない。週に一度、録音した音源を渡してメールでアドバイスを受けるだけでは、どうしても限界がある。

 だけれど、今も左腕に点滴を繋がれている波多野を見ると、無理して来てくださいとはとても言えなかった。

「さて、このままだと言いにくくなる一方ですから、本題に入りましょうか」

 近況報告もそこそこに、波多野は改まった口調で告げた。喉元にナイフを突きつけられたような響きに、晴明は無意識に背筋を伸ばす。

「似鳥くん、ここでこんなことを言うのは大変心苦しいのですが、正直にお話します。現状、私が似鳥くんの家まで出向いて指導するのは、率直に言って難しいと言わざるを得ません」

 晴明は頷いた。というより、頷く以外に取れる行動がなかった。

「ですので、今後似鳥くんのお家にお伺いする機会は、今までよりもいっそう少なくなると思います。それで本当に似鳥くんの力になれるのか、何度も考えました。ですので、似鳥くん」

 波多野がじっと晴明の目を見る。その真剣さに晴明は、下手な返事を打つことはできなかった。

「今日限りで、似鳥くんへの指導を終わらせていただきたいです。もちろん、嫌になったわけでも愛想を尽かしたわけでもありません。ただお互いにとって何が最善かを考えたときに、もうこれ以上似鳥くんの指導をすることはできないと思ったんです」

 言葉としての体を成していないただの音の塊がぶつかってきた感覚を、晴明は味わった。有り体に言えば、波多野が言っていることが理解できない。

 いや、心の底ではもしかしたら指導の終了を切り出されるのではないかとは思っていたが、いざ現実になるととうてい受け入れることはできなかった。

「……それって僕の家にはもう来ないってことですか?」

「はい。今の私が行っても、心配させるばかりで、似鳥くんの役に立つことは、ほとんどありませんから」

「そんな。じゃあ、練習はどうするんですか? 僕一人でコンサートに向けて演奏を形にすること、正直自信がないですよ」

「それはちゃんと責任をもって私が、似鳥くんに新しい先生をつけます。既に何人かの方には声をかけていますから。心配する必要はありません」

「いや、そういう問題じゃなくてですね……。どうして波多野先生は僕への指導をやめようと考えたんですか……? ちゃんと説明してもらわないと分からないですよ」

 いつの間にか晴明は縋りつくような声色になっていた。認めたくないという思いが、気持ちを焦らせる。

 聞き質されて、さすがに波多野の表情にもかすかに影が差す。

 晴明は立ち去りたくなる心を抑えて、波多野の側に立ち続けた。

「似鳥くん、本当のことをお話しますと、最初に倒れたときから、既にその予兆は見えていたんです」

「予兆ってどういうことですか……」

「驚かずに聞いてください。今、私の脳には悪性の腫瘍ができています。しかも決して小さくない」

 その言葉を聞いたとき、晴明は身動き一つ取れなかった。想像を超える事態の悪さに、喉が動いてくれなかった。

 呆然とする晴明を見ながら、波多野は平坦にただ事実だけを語ろうとする。

「本当は最初に入院した時の検査で、脳腫瘍は発覚していました。でも、そのときは体調も悪くなかったですし、このまま似鳥くんの指導を続けられると思ったんです。でも、脳腫瘍は少しずつ大きくなっていった。今では目眩や吐き気、頭痛などを感じることも多く、また杖なしでは歩くことさえ困難になってきています。きっと今回の入院は今までで一番長いものになるでしょう。ですから、繰り返しになりますが、似鳥くんの家にお伺いすることは現実的に難しいんです」

「そんな……。でも、腫瘍があるならそれを取り除けばいい話じゃないですか。手術はしなかったんですか?」

「ええ、二度目の入院の時にしました。そのときは腫瘍を摘出できたのですが、今になってまた別の場所にできていることが分かって。医師からはもう手術は難しいと言われてしまいました」

 深刻な様子を見せず、淡々と答える波多野。だけれど、内容の重さに晴明は目の前が真っ暗になるようだった。涙さえ出そうになってくる。

 でも、波多野の方がずっと泣きたいだろうし、絶望感を抱えているはずだ。そう思うと、自分が涙を流すのはふさわしくないように、晴明には感じられた。

「波多野先生……、それならそうと、どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか……? そんな症状が進んでから言われたら、もうどうしようもないじゃないですか……」

「申し訳ありません。似鳥くんを心配させたくなかったんです。私自身もきっとよくなるだろうと、楽観視していました。今考えると、腫瘍が発覚したときに似鳥くんにはちゃんと伝えておくべきだったと思います。報告がこんなに遅くなって、本当に申し訳ない思いでいっぱいです」

 謝りながらも、波多野はその目を晴明のもとに向けていて、最大限の誠意を晴明は感じる。

 一番不安なのは波多野だし、一番もどかしさを感じているのも波多野だ。だから、晴明は感情的になって波多野のことを責めることはしなかった。

 この状況を招いた一番の原因は、病気にある。波多野のせいではない。

「波多野先生、僕の指導をやめることはもう決定事項なんでしょうか……?」

「大変心苦しいですが、そうです。後でご両親にも電話でお話しますが、もう私が似鳥くんの家に行くことはないと考えてください」

 突き放すような言い方をした波多野に、晴明は改めて現実のままならなさを悟った。諦めたわけではないが、受け入れなければならないとも感じる。

 内心で葛藤する晴明を、波多野は目を細めて見ていた。優しく包みこもうとするかのように。

「似鳥くん、私から一つお願いを言わせてもらっていいですか?」

 晴明は頷く。どんな言葉でも聞き入れようと思った。

「これからもピアノを弾き続けてください。君のピアノには人々の心を動かす力があります。君のピアノを糧に頑張れる人がきっといるはずです。だから、私がたとえ聴いていなくても、演奏活動を続けてください。それが志半ばで指導を降りる私からの唯一の願いです」

 力強い言葉に、胸が詰まる。晴明は「はい」としか言えなかったが、心では確かな決意が芽生えていた。

 波多野のためにも自分はピアノを弾かなければならない。まずは八月のコンサートを成功させなければならない。それが波多野にとっての、何よりの喜びになる。

 晴明はそっと波多野の手を取った。痩せた手にはかつてのような凛々しさはなかったけれど、それでもちゃんと人肌の温度を保っていた。

 指慣らしのための練習曲を弾く。小気味いい音が地下の練習室に響く。

 だけれど、晴明の心は全く落ち着いてはいなかった。

 波多野からもう指導ができないと告げられてから二週間。唯一の願いと波多野に言われた通り、晴明はピアノを弾き続けていた。自分が前に進んでいる感覚が得られなくても、毎日ピアノに向かっていた。

 それでも、今日は今までと段違いの緊張感がある。ピアノから離れるのが、空恐ろしく感じるほどに。

 しばらくすると、壁の赤いランプが灯った。客人が来た合図だ。

 練習室から出て、玄関に着いた晴明が見たのは、奈津美と話している見知らぬ女性の姿だった。いや、顔は波多野から教えてもらったので知ってはいるのだが、いざ目の当たりにすると、想像していたよりも小柄だったので、少し驚いてしまう。

 その女性は晴明を見るやいなや、奈津美との話をやめ、にこりと笑いかけてきた。大らかな表情が、かえって晴明を緊張させる。

「初めまして。似鳥晴明さん。もう聞いてるとは思いますが、本日からあなたの指導をさせていただくことになりました、小船幸代と申します」

「よろしくお願いします」そう慇懃に頭を下げた小船に、晴明も思わず続く。薄緑色のチュニックワンピースを着た小船に、晴明は写真で見るよりも若い印象を抱いた。

「そんなに緊張なさらなくても大丈夫です。あなたのことは、波多野くんから常々お伺いしていますよ。全日本学生音楽コンクールの第一位受賞者の指導に携われて、私としても光栄です」

 晴明はとっさに謙遜する。ハードルを上げられたようにも感じてしまう。

 小船には、複数の国際コンクールで上位に入賞した実績がある。ここ数年は演奏活動からは離れているものの、講師としては申し分ないどころか、最上級の存在だ。今も何人かの生徒を受け持っているが、音大の後輩である波多野の強い要請を受けて、今回晴明も見てくれることになった。

 だから、晴明は緊張しながら、大きな感謝もしていた。

「小船先生、晴明のことをよろしくお願いします。少し気が弱いところはありますけど、素直な子ですので」

「はい。もちろんです。大切なお子さんをお預かりさせていただくんですから、私もそれ相応の覚悟と熱意をもって、晴明さんの指導に当たらせていただきます」

 決意表明めいた小船の言葉を、晴明は目を逸らさずに受け取った。波多野が託してくれた以上に、この先生を信じて問題はないと感じた。

「では、晴明さん。さっそく練習の方を始めましょうか。手始めに八月のコンサートで披露する予定の曲を一曲、弾いていただけますか?」と小船が言う。

 晴明も頷いて、二人は練習室へと向かった。階段を下りている間も、晴明の心臓は鼓動を速く刻み続けていた。

 練習室に戻った晴明は、一つ息を吐いてから、小船に言われた通り、ショパンのポロネーズ第五番を弾き始めた。入賞者記念コンサートでも披露したし、八月のコンサートでも演奏する予定の、今晴明が最も出来に自信を持っている曲だ。

 でも、すぐ隣で小船に聴かれていると、正直なところ、ステージで演奏するよりも緊張してしまう。両親と波多野以外に晴明は練習室に人を入れたことがなかったから、集中しようとしても、小船を意識せずにはいられない。

 当の小船は口を挟まずに演奏を聴いていたが、晴明は曲が終わった後のことを考えると、気が気でなかった。

 それでも、ポロネーズ第五番を晴明は、一つのミスタッチもせずに弾ききる。今持てる力は十分に出せたはずだと、晴明は実感する。

 小船は静かに手を叩いてくれた。音は小さかったけれど、明確な拍手に晴明はほんの少し安堵する。皮肉ではないと思いたかった。

「晴明さん、ありがとうございます。いい演奏でした。さすがは学生コンで第一位を受賞しただけのことはありますね」

 ひとまず褒められて、晴明はかすかに胸をなでおろす。「ありがとうございます」と純粋に返事をしてよさそうだ。小船も穏やかな顔をしている。

 だからこそ、落ち着いたトーンで口にされた「ですが」という言葉に、晴明は構えざるを得なかった。

「課題がないわけではありません。きっと波多野くんの指導を受けられなかったから、不安で仕方がなかったのでしょう。そんな気持ちが、演奏に現れてしまっていました。でも、もう大丈夫です。私も精一杯の指導をしますし、今まで迷っていたり立ち止まっていた分、一緒になって演奏を向上させていきましょう」

 その言葉だけで、小船が波多野に負けず劣らず自分に親身になってくれることが分かったから、晴明も素直に返事ができた。コンサートへの、そしてその後の演奏活動への道筋が、おぼろげながら見えてきた感覚もした。

 さっそく小船に指摘された箇所を、再び弾いてみる。

 自分はピアノを続けることができる。波多野が指導に来なくなった日から初めて、晴明はそう思えていた。


(続く)

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