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スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(155)


前回:スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(154)





 軽やかな音色が部屋を駆け巡る。ワイシャツの裾が手の動きに合わせて縦横にはためき、視界には白と黒の小宇宙しか入らない。跳ねるような響きは晴明の耳を伝って、鼓舞する。

 地下に作られた防音室には、ピアノの音以外はせず、また地上からの生活音を完全に遮断していた。適温に保たれた環境のもとで、晴明は夢中で、それでも冷静さを失うことなく、指を動かし続けた。一時間ずっとピアノに向かっていても、集中は少しも切れなかった。

 曲を弾き終わると、晴明はゆっくりとピアノから手を離す。そして、一つ息を吐いてから斜め後ろを振り返った。側に立って、手を前で組んでいる人物が話し始めるのを、晴明は静かに待つ。

 波多野リシャール和宏は、晴明が小学生の時から指導をしてくれている。的確で思慮深いアドバイスは、晴明にとってはつまらない意地を張らずに、聞き入れられるものだった。

「全体的にはよく弾けていると思います。本番も同程度の演奏ができれば、おそらく上位は固いでしょう」

 波多野は、まず今の晴明の演奏を評価してくれた。確かに自分で弾いていても、手ごたえはあった。

 だけれど、これで満足はできない。晴明が目指しているのは全国大会進出、そして第一位受賞なのだ。上位ではなくて、はっきり東京大会の一位だと認められるような演奏をしたかった。

 強い意志を持って、波多野を見上げる。波多野も晴明の気持ちが分かっているかのように、「ですが」と言葉を続けた。

「全国大会出場を確実にするためには、まだまだ改善の余地はあります。特に曲が始まってから二つ目のパッセージには、まだ少し硬いところが見られます。短くても、ここは印象に残るので、次はこの前後を重点的に練習していきましょう」

「はい」

「それと、テンポが走ってしまう個所がところどころに見受けられます。軽快さも大事ですが、聴いてくれる方々のことも意識して、冷静な頭を持って弾いていきましょう」

「はい」

「とりあえず、私が特に修正した方がいいと思うのは以上の二点なのですが、逆に似鳥くんから何か訊いてみたいところはありますか?」

「僕としては中盤のリタルダンドがあまりうまくいかなかったと思うのですが、波多野先生から見てどうでしたか?」

「そこは私も気になりました。でも、少し意識すれば改善できると思うので、そこまで深く気に病む必要はないと思います」

「ありがとうございます」と礼を言い、晴明は楽譜を捲って、先ほど波多野に指摘された箇所を確認しようとした。

 しかしその瞬間、壁掛け時計の隣に備え付けられたオレンジ色のランプが点灯する。両親から連絡があった合図だ。壁掛け時計は七時半を差していたから、おそらくは夕食の時間だろう。

 波多野もそのことを理解して、練習を中断してくれた。立ち上がって、部屋の外に出る二人。

 階段を上っていると、カレーのいい匂いが晴明の鼻には入りこんできていた。

 晴明がリビングに出たときには、すでに四人分のカツカレーがダイニングテーブルに置かれ、冬樹と奈津美が座って待っていた。

 波多野は東京で一人暮らしをしていて、晴明のもとに指導に来るときは、時折こうして一緒にご飯を食べることがある。この日も波多野は少し遠慮した様子を見せていたが、冬樹に促され、結局は晴明の隣に座っていた。

 ジャケットを脱いでワイシャツ姿になっている波多野は、似鳥家の風景に自然に馴染んでいた。

「で、どうですか。波多野先生。晴明の調子は? 本選、大丈夫そうですか?」

 カレーを一口、口に運ぶとすぐに冬樹が聞いてきた。食いつくような訊き方も、コンクールの本選を一週間後に控えた今日なら無理もないと晴明は感じる。

 二人とも、頬は赤くなっていない。波多野が来るときは酒を呑まないという習慣を、冬樹は半ば願掛けのように続けていた。

「はい。曲も十分に理解していますし、運指も淀みないです。調子も上々で、力を出し切れれば入賞、全国大会進出も現実的に可能かと」

「波多野先生にそう言ってもらえると心強いです。八月の予選を突破できたのも、波多野先生の指導の賜物ですもんね」

「いえ、お母さん。褒めるなら僕より、晴明くんのことを褒めてやってください。予選を突破できたのは、晴明くん本人の力ですよ。僕はそんな大したことはしてません」

 波多野は謙遜していたが、実際今の自分には波多野の影響が計り知れないほど大きいと、晴明は自覚していた。波多野の指導を受けていなかったら、予選すら突破できていなかったかもしれない。

 なのに波多野は何てことないようにカツカレーを食べ進めていて、その驕らない態度が晴明には好ましかった。思わず頬を緩めてしまう。

 そうできるくらいには、食卓は団らんとした空気に包まれていた。

「ところで、波多野先生は、来年以降はいかがされる予定なんですか?」

「たぶん今までと同じですよ。大学で研究を続けて、時折演奏活動もする。大きく変わらない日々を過ごす予定です」

「でしたら、来年以降も晴明の指導はしていただけますよね?」

 奈津美が少し祈るように訊いていた。晴明も、波多野が首を縦に振ってくれることを望む。波多野以外から指導を受けることは、今の晴明には考えられなかった。

「ええ。ちゃんといただくものもいただいていますし、僕でよければ来年からも晴明くんの指導を続けさせていただきたいです」

 前向きな返事をした波多野に、晴明はほっと胸をなでおろした。いくらやめる理由がないとはいえ、本人の口からそう聞くと、驚くぐらい安堵している自分がいた。

 波多野の横顔はにこりと緩められている。気兼ねないその姿に、晴明は感謝を述べずにはいられなかった。

「波多野先生、ありがとうございます。まだまだ至らないところも多い僕ですが、これからもよろしくお願いします」

「ええ、こちらこそどうぞよろしくお願いします。まずは、来週のコンクール本選、がんばりましょう」

 波多野の言葉は力強くて、晴明の気はいっそう引き締められる。両親の他に自分に期待してくれる人間がいることは、晴明にプレッシャーではなく、ポジティブな効果を引き起こした。冬樹や奈津美も口々に礼を言っていて、波多野はそれぞれに物腰柔らかに応じている。

 リラックスした中でも、程よい緊張感を保って食事は続いていく。三人と何てことない話をしながら、カツカレーを食べ進める波多野。

 晴明は自分たちの親密さに、ただの先生と教え子という関係では得られない心強さを得ていた。

 晴明が学校もどこか上の空で、練習や最終確認に打ち込んでいると、あっという間に時間は過ぎ、コンクール当日の朝を迎えた。

 審査開始は午後の二時半だが、晴明は両親と一緒に一〇時には、会場であるトレヴィザンホールに到着していた。本番前にピアノの状態等をチェックするリハーサルがあるからだ。リハーサルは演奏順に行われるため、二番目の晴明は他の多くの参加者よりも、早く到着する必要があった。

 実際に演奏中に着る黒の襟付きシャツを身に纏うと、晴明には臨場感と緊張感が出てくる。

 ゆっくりと楽屋のドアを引くと、室内には学校の制服と思しき、白のワイシャツを来た男子が座っていた。気兼ねなく両親と話していて、緊張はあまり見られない。

 だけれど、その男子は晴明たちが入ってくるのを見ると、席を立って両親と一緒に、晴明たちのもとに歩み寄ってくる。にっこりと微笑んでいて、ずいぶんと余裕があるなと晴明は感じた。

「似鳥くん、おはよう。どう? 昨日はよく眠れた?」

 その男子は、晴明よりもいくぶん身長が高かったから、晴明は少し見上げる形になってしまう。でも、友好的な態度に敵意は抱かなかった。

「おはよう、天ヶ瀬くん。ぐっすり眠れたよ。おかげで体調は万全に近いかな」

「いいなぁ。僕なんて緊張して五時間しか寝れなかったよ。正直今もちょっと眠いくらい。まあ演奏に支障は出ないと思うけどね」

 言葉とは裏腹に、天ヶ瀬の表情は自然で、目は少しも揺らいでいなかった。肩ひじを張っていない態度が、積み上げてきた練習によって手にした自信を、晴明に思わせる。それは自分も同じだったから、晴明も困ることはなく、実に穏やかな表情ができる。

 天ヶ瀬匠とは小学校のときから、何度か同じコンクールに参加している。千葉と東京とで住む場所が離れているから、あまり会うことはないが、それでもライバルというよりは同志のような関係だと、晴明は思っている。

 二人の側では、両親たちが挨拶を交わしている。フォーマルな衣装とは違って、まるで旧友みたいに打ち解けていた。

 天ヶ瀬は、名の知れたピアニストである父親から指導を受けている。それでも、晴明に見せた顔には敵対心は含まれていなくて、「お互いベストを尽くそう」という言葉に、嘘偽りはなさそうだった。

「あれ、もしかして似鳥くん緊張してる?」

 自分のどこを見てそんな言葉が出てくるのか、晴明にはよく分からなかったが、毎回の挨拶みたいなものなので、小さく笑う。そう訊いてくるあたり、平気そうに見える天ヶ瀬も、やはり少しは緊張しているらしい。

「まあ、少しはね。でも、ある程度緊張感があった方が演奏はよくなるし、別に気にしてないよ。天ヶ瀬くんは?」

「僕も、ちょっとは緊張してるかな。でも、お父さんから指導を受けるときに比べたら大したことないよ」

 そう言って笑う天ヶ瀬に、父親が「俺ってそんなにおっかないか?」と訊いている。軽い調子の質問だったので、天ヶ瀬も「うん」とあっけらかんと返事をしていて、二人の関係性のよさが窺えた。

「でさ、今日も波多野さんは来てくれるんだよね?」

「いや、今日はどうしても研究から手が離せないみたいで、来ないってさ」

 晴明が言うと、天ヶ瀬は分かりやすく肩を落とした。

 もともと天ヶ瀬は波多野のファンなのだ。今日だって、晴明のついでに自分の評価を聞くことを楽しみにしていたに違いない。

 たとえ事実でも落胆している天ヶ瀬に悪いことを言ってしまったと感じて、晴明は慌てて言葉を繋げた。

「でも、来月の全国大会には来れるみたいだから。今日の結果次第では、また波多野先生に会えるよ」

「そっか。じゃあ、余計頑張んなきゃだ」

 そう言って、天ヶ瀬ははにかんだ。言葉を交わしていると、少しずつ自分が自然な状態になれていることを、晴明は感じた。天ヶ瀬と順番が隣でよかったと感じる。そうでもなければ、なかなか話す機会には恵まれない。

 二人が両親たちも交えて雑談を続けていると、楽屋のドアが開いて、ステージマネージャーの男性が入ってきた。天ヶ瀬に「リハーサルお願いします」と、落ち着いた様子で告げる。

 天ヶ瀬も頷いて、両親と一緒にコンサートホールに向かい始めた。去り際に言われた、「今日はお互い頑張ろうね」という単純な言葉に、晴明も大きく頷いた。全力を出し切って、二人ともが全国大会に進めることを望んだ。

 天ヶ瀬たちが出ていくと、楽屋には晴明たちしかいなくなる。慣れない楽屋に自分たちだけがいるのが、どこか奇妙で晴明はとりあえず、天ヶ瀬が座っていた隣の椅子に座った。冬樹や奈津美と、二言三言言葉を交わす。

 そうしていると、外から天ヶ瀬が奏でるピアノの音がうっすらと聴こえた。

 天ヶ瀬が最後の一音を鳴らし終わった。ホールには暖かな静寂が流れていて、観客の誰もが天ヶ瀬の演奏の余韻に浸っている。

 その証拠に天ヶ瀬が立ち上がってお辞儀をすると、すぐに大きな拍手がホールにこだました。天ヶ瀬も満足げな、やりきったという横顔をしている。

 実際、天ヶ瀬はトップバッターの重圧をものともしないエネルギッシュかつ、抒情的な演奏ですっかり観客を味方につけていた。今年の本選大会のレベルの高さを印象付けるに十分な演奏は、舞台袖で聴いていた晴明をも勇気づける。後れを取るわけにはいかないと、前向きな闘争心が湧いていた。

 確かな足取りで、舞台袖に戻ってきた天ヶ瀬と晴明はすれ違う。その瞬間、天ヶ瀬は小さく微笑んできて、晴明は励まされる。

 自分の演奏に手ごたえがなければできないような誇らしい表情に、晴明は嫉妬心を抱くこともなく、より集中が高まった。緊張とリラックスがいい塩梅で混ざり合っている。ステージで演奏するには理想的な状態だ。

 普段通りにできれば大丈夫だと、晴明は信じていた。

「似鳥さん、出番です」

 ステージマネージャーの男性が、静かに告げる。晴明は立ち上がって、誰も喋っていないのにどこか騒がしいホールに足を踏み出した。

 革靴がコツコツと小さな音を立てる。客席にいる全ての人々の視線が自分に向いていることを、歩きながら晴明ははっきりと自覚していた。

 ピアノの前に立って、改めて客席を見回す。一人一人の顔までつぶさに見えて、晴明は心臓が高鳴っていることを改めて感じた。

 審査されていることもあり、ステージの上では完全な平常心ではいられない。だから、どうせなら聴かれていることを楽しめばいい。ここにいる観客は全員味方で、自分の演奏を待ってくれている。晴明はそう好意的に解釈した。

 事実、それを裏付けるように晴明がお辞儀をすると、客席からはまとまった拍手が聞こえてきて、期待されていることが晴明の心を持ち上げる。審査されているプレッシャーはあるが、それ以上に観客の前で演奏できる喜びを噛みしめようと、晴明は頭を上げて感じた。

 高さと位置を調節してから、椅子に座る。白と黒の鍵盤に改めて向き合うと、静かに胸の奥から湧き上がってくるものを、晴明は感じる。天井照明を反射して輝いていて、自分に弾かれるのを待っているようだ。

 これからこの鍵盤たちを自由自在に操って、自分にしかできない音楽を奏でる。そう考えると、晴明はワクワクさえしてきてしまう。

 気持ちを落ち着けるために、一度鍵盤から目を逸らし、壁と天井の境目を見る。そして、ゆっくり一つ息を吐くと、晴明は背筋を伸ばした。息を吞むような静寂が、今は心地いい。

 鍵盤に指を下ろすと、奏でられた第一音が自分をどこか遠いところへ連れていってくれる感覚が、晴明にはした。


(続く)


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