【小説】ロックバンドが止まらない(99)
ショートランチやスノーモービルの機材車がやってきたのは、神原たちが自分たちの機材の搬入をあらかた終えた頃だった。神原たちも二組の機材の搬入を軽く手伝いつつ、全ての機材を下ろし終わったタイミングで、プラチナホールのフロアに向かう。
プラチナホールは、渋谷のN―EASTよりは少し規模が小さく、三〇〇人が収容できるライブハウスだった。東京よりもキャパシティは控えめだとしても、三組の人気を思えば、名古屋でも満員近く埋まるだろう。実際、八千代からチケットは前売り券だけで完売し、当日券はないと神原たちは知らされている。
初めての東京以外でのライブが多くの観客の前でできそうなことに、神原は今から興奮と緊張を覚えていた。
ステージでは、今日のトップバッターを務めるショートランチのリハーサルの準備が進められている。
それでも、この日の神原はリハーサルを見ることなく、外に出ていた。時刻は正午を回っていて、そろそろ昼食を食べたいと思ったからだ。神原たちの今日の出番は最後だったから、自分たちの番にリハーサルが回ってくるまでにもあと一時間ほどある。
神原はプラチナホールを出ると、少し名古屋の街をそぞろ歩いた。何を食べるかはあまり決めていなかった。
それでも、プラチナホールは市街地の一角にあったから近辺にはいくつも飲食店が軒を連ねていて、神原が食べるものに困ることはなかった。
どうせなら名古屋らしいものが食べたいと思いながら探していると、神原はある看板に目を留める。その看板には名古屋名物であるきしめんが描かれていて、神原は誘われるかのように店内に入った。
店内は賑わっていたけれど、それでも空席はあって神原はすぐに席につけた。注文してから一〇分が経って、目当てのきしめんがやってくる。立ち昇る味噌の香りが、食欲をそそる。
口に運んでみると、味噌味のスープに平たい麺がマッチしていて、まろやかな味わいが美味しかった。食べながら、これはライブMCで使えるかもしれないと神原は思う。
ご当地トークをすれば、観客も親近感を覚えてくれて、自分たちに興味を持ってくれる。そんな可能性を、神原は感じていた。
昼食を済ませ、しっかりと決められた時間までに戻った神原は、園田たちとともにリハーサルを開始する。
昨日のライブの疲れに加えて、機材車による移動での疲労も園田たちにはあったことだろう。でも、三人は疲れを感じさせないような演奏を見せていて、それは神原も同様だった。
三日間で三つの都市でライブをするタイトなスケジュールとはいえ、自分たちが今よりも売れたらこれ以上の規模でツアーを周ることだって、あり得るのだ。東名阪ぐらいで音を上げてはいられない。そんな共通認識を、神原は自分たちの演奏から感じた。
きっと今日初めて自分たちを見る観客も多いだろう。その観客の前で、変に浮き上がらず地に足のついたライブができそうだと、神原はリハーサルを終えた瞬間に思った。
プラチナホールは、神原たちがリハーサルを終えてからおよそ一時間後に開場時間を迎えた。その時間までには遅めの昼食を食べに行っていたショートランチやスノーモービルのメンバーも戻ってきて、神原たちは全員で楽屋に待機する。
少しずつフロアにも観客が入ってきて、人の気配や話し声を楽屋にいても感じて、神原はソワソワしてしまう。
東京では、どのライブハウスでも自分たちの本拠地だという気持ちが少なからずあった。でも、ここは名古屋で、神原たちにとっては初めての東京を飛び出しての演奏だ。名古屋の観客に、自分たちの音楽が受け入れられるのか、神原は改めて心配に思ってしまう。
黙って待っていることもできなくて、園田や久倉に機を見ては話しかけた。園田たちは「大丈夫だって」と言ってくれて、神原の気持ちもわずかに上向く。
三組合同ではあるが、名古屋や大阪といった地方でも十分に観客を集められると判断されての、今回のツアーだ。チケットも売れている。自分たちのことを誰一人として知らないということはないだろう。神原はそう前向きに考えることにした。
ライブ開始一〇分前に、スタッフが「スタンバイお願いします」とショートランチの三人を呼んだ。「じゃあ、行ってくるね」と神原たちに告げて、楽屋を後にした三人はこの状況でも自然体で、既にワンマンツアーの経験もあるからか、東京の外でのライブにも慣れているように神原には見える。癪だけれど、そんな三人が神原には、今だけ羨ましくも思えてしまう。
三人が楽屋を後にして少しすると、神原たちやスノーモービルの面々もショートランチのライブを見るために、フロアの二階にある関係者席へと向かった。
二階から見下ろしてみると、フロアの一階はほとんど隙間も見られないほど観客で埋まっていた。チケットが前売り券の段階で完売したことは疑いようもなく本当で、期待が風船のように膨らんでいることを神原は感じる。
ライブをするには悪くない雰囲気だったけれど、この期に及んでも神原の緊張は高まっていた。
自分たちの出番はまだ先なのに、神原の心臓が早鐘を打ち始めるなか、時刻はライブが開演する一七時を迎えた。そこから少し遅れて客入れのBGMが止み、フロアの照明は落とされる。
フロアから小さな歓声が上がるなか、ライブハウスにはショートランチの登場SEが流れ始めた。ミドルテンポの曲は合わせやすいのか、リズムに合わせて手拍子が起こっている。関係者席でも、園田や久倉は自然な様子で手を叩いていたが、神原はそうしたいとはまだ思えなかったし、そこまでの余裕もなかった。
登場SEがサビに差しかかったタイミングで、三人がステージに登場すると、フロアからはより大きな拍手と歓声が巻き起こった。三組の中でも一番人気のあるショートランチがトップバッターとして登場したことで、演奏する前からライブハウスに漂う空気に熱が加わったかのようだ。
演奏の準備を終えて登場SEを止めると、ショートランチの三人は辻堂のドラムを合図にして、一斉に演奏を始めた。そして、演奏された曲に神原は少なからぬ驚きを覚えてしまう。
三人が演奏しだした曲は、昨日の東京でのライブでは演奏しなかった曲だった。軽快なリズムを持ったポップな曲に、観客の反応もすこぶる良い。
それでも、神原は少し震えるような感覚を抱く。自分たちは今回のツアーのどの公演でも、ほとんど同じセットリストを演奏する。初めてのツアーで日程もタイトなこともあり、ライブごとにセットリストを変える余裕はなかったからだ。
それでも、ステージの三人は二曲目にも昨日は披露しなかった曲を演奏していて、神原は驚かずにはいられない。
もしかしたら、昨日今日と続けてライブに来ている熱心なファンも、いるのかもしれない。その少ない人たちをも飽きさせないようなライブをしようとしている三人が、とても挑戦的に思えた。
今回のツアーで初めて演奏される曲にも、観客は心から楽しむ様子を見せていて、三人がクオリティも高く人気もある曲を多く持っていることが伝わってくる。
昨日とほとんど同じセットリストを演奏する自分たちは、今日の観客にどう思われるだろうか。今さら演奏する曲を変えることはできなかったけれど、神原の心には不安が忍び込んでしまっていた。
それからもショートランチは代表曲なのだろう、昨日のライブでも演奏した曲を織り交ぜながら、昨日とは大きく異なるセットリストを演奏していた。それでも、フロアは全ての曲が代表曲だと言わんばかりの盛り上がりを見せていて、キャパシティは若干小さくなっていても、ライブハウスに生まれている熱は昨日と比べても遜色なかった。
しかも、今日のショートランチはトリではなくトップバッターだということが、神原に途方もない思いを抱かせる。本来、盛り上がりがフラットな状態からライブを始めなければならないトップバッターには不利な面もあるのだが、ステージの上のショートランチは、そんなことはものともしていない。完全に観客を味方につけていて、それは東京でも名古屋でも変わっていなかった。
きっと明日の大阪でも同じように、観客の期待に十二分に応えるライブをするのだろう。
神原のなかで、少しだけ弱気な部分が顔を出し始める。明日の大阪でのライブは神原たちがトップバッターだ。今日のショートランチのようなライブができる保証はどこにもない。
何回か経験したことのあるトップバッターが、初めてライブをする大阪という土地柄もあり、端的に言えば神原は少しビビってさえしまっていた。
でも、今はまだ明日のことを考える場合じゃない。今考えるべきは今日ここでのライブだ。そう神原が考えを改めることができたのは、ショートランチのライブが終わってライブハウスに渦巻いていた熱が少し落ち着いてからのことだった。
ショートランチの三人は最後には「シャンデリア」を披露して、フロアを十分すぎるほど暖めてライブを終えていた。まだスノーモービルも神原たちも残っているのに、かすかに満足したような空気さえフロアには漂っているほどだ。
その雰囲気に、神原は危機感を抱く。観客が今日の分の盛り上がりを、今のショートランチのライブで使い切ってしまったのではないかと、思うと気が気でない。
ステージでは転換作業が行われているなか、出番を終えた三人が関係者席にやってきても、神原は何も声をかけられなかった。「良かった」と一言言うことでさえ、癪な気がした。
それでも園田や久倉は、ライブを終えた三人にごく自然な様子で声をかけている。交わされる和やかな会話に、緊張はしていないのかと神原は思うほどだった。
(続く)
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