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【小説】sakekotoba(3)




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「話は変わりますけど、マスターって推し、いたりしますか?」

「推し、ですか?」

 突拍子もない私の質問に、マスターはとぼけた表情をした。その反応が面白くて、私の中のサディスティックな部分が顔をのぞかせる。

「えっ、マスターもしかして推しって言葉、知らないんですか?」

「いえ、言葉自体は知っています。ひいきにする対象のことですよね」

「そうですよ。まあざっくり言えば、マスターは誰のファンですか?」

 推しは自分の嗜好の集合体で、性癖のミニチュアだ。だから、推しを公表することは、自身の性癖を発露することに、遠巻きだが繋がっている。

 会ったばかりの私に、自分の性癖を見せてくれるかどうか、確証はなかったが、マスターが会話を続けたいと思っていることを願うしかない。

 私はどんな答えだって受け入れる。まあさすがにAV女優とか挙げられたら、少し戸惑うけど。

「そうですね……。大泉洋さんですかね。俳優の」

 あっ、どうしよう。一番反応に困る人だ。

 マスターのぱっと見の年齢を察するに、おそらく『水曜どうでしょう』から入ったんだろう。サブカルの極北みたいな響きに、私は軽く慄いた。

 『水曜どうでしょう』は見たことがないし、他の出演作品だって一ミリも知らない。

 とりあえず持っている知識を総動員させて、なんとか会話を繋げる。

「へぇ、そうなんですか。じゃあ、マスターって北海道出身なんですか?」

「いえ、埼玉です。寄居の辺りです」

 いや、どこだよ。大宮や川越ならまだしも、寄居ってどこだよ。日本人全員が埼玉の市町村に詳しいと思うなよ。

 と、心の中でツッコんで、私はひとまず愛想笑いを作った。密やかな店内に、安易な否定は控えたくなる。

 アルコールも回り始めて、上機嫌にもなってたし、もともと私は笑い上戸なタイプだった。

「ところで、堀口さんの推しはどなたですか?」

 ごく当たり前に聞いてくるマスターに、私は内心、待ってました! と快哉を叫んでいた。

 脳裏に思い浮かぶのは一人しかいない。

 イメージすればするほど、その人の顔ははっきりと思い出される。すっごいかっこいい。

「えー、でもたぶん、マスターの知らない人だと思いますよー」

「いえいえ、どんな方でも大丈夫です。こう見えて私、芸能人には詳しいですから」

 そう言ってマスターは鼻を鳴らしてみせた。

 すいません、芸能人じゃありません。もっと身近な人です。

 その名を言って、マスターが困っているところを想像すると、なんだか可笑しくて笑みがこぼれる。歌苗とかに見られてなくてよかった。

「どうかしましたか?」

「何でもないです。えー、それでは私の推しを発表したいと思います。私の推しは……」

 そこで区切って、私はいったん言葉を溜めた。マスターが背筋を伸ばしていながら、食いついているのが分かる。

 頭の中でドラムロールを鳴らして、私は高らかにその名を口にした。

「村崎由愛さんです!!」

 はい、ポカンとした表情、いただきました。

 マスターは軽く目を泳がせていて、何歳も上の人間を手玉に取っている感じが愉快だ。

 私はグラスを傾けて、三杯目のスミノフを飲みきった。「お注ぎしますか?」と言われたが、やんわりと断った。

 今はもっとマスターの困った表情を見ていたかった。

 村崎由愛の名を、頭に焼きつけてほしかった。

「すいません。私の勉強不足でご存知ないのですが、その村崎さんという方は、いったい何をしている方なのですか?」

「ああ、村崎由愛さんは私の会社の先輩です。部署は違うんですけど、たまに経理部にも来てくれるんですよ」

 そんなの知ってるわけねぇじゃん。かすかに眉を動かしたマスターから、私はそう思ったであろうことを読み取る。

 でも、マスターは「そうですか? どういったところが推しなんですか」と尋ねてきたから、話の通じない奴だとは思われていなさそうだ。

 よし、よかろう。そっちがそう聞いてくるなら、布教開始だ。

「まず、立ち姿がかっこいいんですよね! 身長が一七〇くらいあって、背筋をピンと伸ばしてるから、まるで宝塚の男役のように見えて! それに私みたいなちんちくりんにも、分け隔てなく話しかけてくれますし、色んなことを知ってるから話題も豊富で、話していて面白いんですよね! それに声も声優さんかと思うくらい綺麗で、絶えることのない笑顔はもう悩殺級の破壊力ですよ! この世に村崎さんみたいな人がいて、しかも一緒の会社になれて、私はなんて運いいんだろって思います!」

「ずいぶんとお褒めになるんですね」

「そりゃそうですよ! 村崎さんは非の打ち所がない方ですから! もちろん、職場でも男女問わず人気で、よく人と話しているのを見かけるんですけど、いつでも笑顔で! 毎日、元気をもらってます! いや、村崎さんと同じ空気を吸えて感謝感謝ですよ! 仕事は別として、生まれ変わっても今の会社に入りたいくらいです!」

「でも、そんな大人気の村崎さんですから、堀口さんとは話す機会はあまり多くないのではないですか?」

「まあ確かにそうですし、もっと話したいなとは思いますけど、村崎さんは皆の村崎さんですから。私が独占するなんて許されないですよ。そうそう、聞いてくださいよ! 今日、仕事終わりにばったり会って、同じエレベーターに乗ったんですよ!」

 気づいたら腕はテーブルの上にあって、身体は前のめりになっていた。

 会ったばかりのマスターに村崎さんのすばらしさを熱弁する私は、まさしく敬虔な信者で、休みの日にやってくる宗教勧誘のおばちゃんみたいだった。マスター、あなたも村崎さん教に入信しませんか? きっと幸せが訪れますよ。
現に私の生活は、村崎さんの存在でこんなにも潤ってるんだから。そう視線で訴えかける。

 マスターは一方的な私の熱意をうざがることもなく、柔和な表情を保っていた。

「そうなんですか。そこまで推せる人がいるっていうのは幸せですね」

「はい。これからも特に本人のためにはなんないんですけど、村崎さんを推していきたいと思ってます」

 私がそう宣言すると、マスターは口の端を小さく上げてみせた。村崎さんの存在を知ってくれた人がまた一人増えたことに、私の中の私が大口を開けて笑っている。

 今日はいい夜だ。

 美味しいお酒と、嫌な顔一つ見せず話を聞いてくれるマスター。他に何を望めばいいのだろう。

「ねぇ、マスター。私が席に着いたときに『当店は、お客様にあったカクテルをお出しする店です』って言ってましたよね。私のイメージにあったカクテルっていうのもあるんですか?」

「はい。先ほどまでの堀口さんのお話を聞いて、どんなカクテルがいいかはイメージできました」

「じゃあ、それください。もうウォッカで、身体は十分温まったので」

 マスターが言われたかったであろう言葉を言う。「かしこまりました」と答えるマスターは、待ってましたと言わんばかりのしたり顔を見せて、酒を選ぶために振り向いた。

 瓶のラベルはアルファベットで書かれていたので、私にはどんな酒が選ばれたのかは分からない。

 でも、マスターが作ってくれるカクテルなら、なんでも美味しそうだ。だって、いかにも経験を積んできたみたいな風貌をしてるから。

 マスターがシェイカーに材料を入れて振ると、氷が入っているのか、シャカシャカと音がした。

 なんか動画に撮って、ツイッターにでもあげたらバズりそうだな、なんてくだらないことを考えていると、マスターはグラスに出来上がったカクテルを注ぎ、スライスレモンを添えて「どうぞ」と提供してくれた。

 目の前のカクテルは淡い茶褐色をしていたけれど、コーラほどどぎつい色じゃなかったから、私の目と鼻は癒やされる。爽やかなレモンの匂いが漂った。

「こちらカカオフィズになります。カカオリキュールとレモンジュースをソーダで割った、すっきりとした飲み口のカクテルとなっております」

 確かにレモンの香りが強くて、アルコールの匂いはあまりしない。

 私が既にウォッカをロックで三杯飲んでいるから、したたかに酔っていると考えたのだろうか。

 でもお生憎、私はまだそこまで酔ってはいない。登山で例えるならまだ五合目ぐらいだ。

 だから、もっと辛口のカクテルでもよかったんだけどな。

 そんな私の生意気な考えは、カカオフィズを一口飲んだ瞬間にあっさりと粉砕された。カカオっていうから苦いのを想像していたんだけど、まろやかな甘みがあって、レモンのさっぱりとした酸味と実によくマッチしている。遅れて顔を出してくる炭酸のおかげで、飲み口がカラッとしてるのも嬉しい。

 私は覚醒したように、一気に目が覚めていた。今までいろんなお酒を飲んできたけれど、その中でもぶっちぎり一位だ。

 失礼だけど、トリキの二九九円のビールとは比べ物にならない。同じ酒とは全く思えない。

 たぶんいい値段がするんだろうけど、この一杯のためなら、一五〇〇円は払っても惜しくなかった。

「とても美味しいです! カカオの甘みとレモンの酸味が相性抜群で!」

「お褒めいただきありがとうございます。堀口さんは辛口のウォッカばかり飲んでましたから、そろそろ甘いものがほしくなる頃かなと思いまして」

 まるでエスパーみたいに心の内を当てられて、私は破顔しながら頷いた。やはりマスターは並々ならぬ経験の持ち主なんだ。肌にかすかによった皴が、そのことを物語っている。

 本当はあまりにも美味しいから一気に飲み干して、二杯目を頼みたかったけれど、私の懐はあまり余裕があるとは言えなかった。

 だから、ゆっくり味わうようにして大切に呑む。その方がカクテルも、マスターも本望だろう。

「ちなみになんですけど、堀口さん。カクテルには花言葉と同じように、カクテル言葉というものがあるのをご存知ですか?」

「いえ、まったく知らなかったです。ちなみに、このカカオフィズはどういう意味なんですか?」

「カカオフィズのカクテル言葉は、『恋する胸の痛み』です。村崎さんという方に恋い焦がれている堀口さんには、ぴったりだと思いまして」

 えっ? 今何てった? 私が村崎さんに恋い焦がれている?

 いやいやいやいや。私にとって村崎さんは同僚で推しで憧れで。私ごときが恋愛感情を持つなんて、ハエが人間に恋するくらいおこがましい。

 私と村崎さんとは住んでる世界が違う、とまでは言わないけれど、異なったものを見て、異なった考え方をしているのは確かだ。それは私にはとても侵すことのできないもので……。

 でも、もっと村崎さんには私のことを見てほしいし……。いや、この見てほしいっていうのは、同僚としてって意味で……。

「そんな恋い焦がれてるなんて。アイドルにガチ恋する厄介オタクじゃないですし、私の村崎さんに対する気持ちは、もっと平坦なものですよ」

「そうですかね。女性が女性を好きになるなんて、なんら珍しいことではないと思いますが」

 落ち着いた声と目に反して、マスターの言葉は興味を隠せてはいなかった。

 そんな、人の心の奥底に踏み込んでくるなんて。この人、意外と本性はゲスいのかな。

 誰かの好いた惚れたで盛り上がるなんて学生じゃないんだし、私たちは大人なんだから、もっと高貴な話題で楽しみたい。

 だけれど、私の頭の中の引き出しには、半径五キロメートルぐらいの話題しか詰まっていなくて、会社ならそれでもいいんだけど、こうやって大人って感じのマスターと顔を合わせると、どの話題も不適当に思える。

 誰か適当に、それこそサイコロを振って話題を決めてくれないかとも思ったが、ここにいるのは私とマスターだけなので、誰かに頼れるはずもなかった。

「マスター、そうやって理解ある感じ出そうとしてません? もし、私がそうだとしても、そういうこと軽々しく言わない方がいいですよ」

「そうでしたか。すいません。もしよろしかったら新しいカクテルお作りしましょうか?」

「いえ、大丈夫です。カクテル言葉は別にせよ、このカカオフィズ美味しいですし」

 私はカカオフィズを傾けた。もちろん美味しいという言葉に嘘はないし、なんだったらおかわりもしたいくらいだ。

 だけれど、そうやって安易に好きか好きじゃないかの二項論に、私の村崎さんへの気持ちは落とし込んでほしくなかった。好きだけど表に出せない、出してはいけないって場合もあるでしょ。

 いや別に私は村崎さんのことが好きだけど、これはloveではなくて、likeって意味で。

 マスターのたとえば、カレーとかに対する感情と一緒ですよ。まあ、マスターはカレーに対して、loveの感情を抱いてるのかもしれないけど。

 そんなことを考えているうちに、時間は過ぎて、お酒も減って、私はカカオフィズをおかわりした。アルコール度数も低いそうだったから、私は真水みたいに甘いカクテルを傾けた。

 間接照明がムーディな雰囲気を醸し出していて、ここはいい店だと思った。マスターがほんの少しだけ下世話なことを除けば。



続く


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