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千の 祈り


#創作大賞2022

不意に、地鳴りがした。
地震? と思うや否や部屋中が、ガタガタと音を立てて揺れ始めた。
どうせ、すぐ収まるだろう。
由依は楽観しようとした。だが、揺れは収まるどころか、次第に激しくなる。
由依は立っていられなくなり、その場にしゃがみ込む。テーブルの下に潜り込めばいいのだろうが、とっさの場合、体は言うことをきかない。
横揺れが激しくなってきた。天井が落ちてくるのではないかと心配になってくる。部屋が左右に揺れ、ガタガタという不穏な音が、ますます大きくなる。
アパート全体が崩れ落ちるのではないか?とさえ思えた。そら恐ろしくなってきた。
外に逃げたほうがいいのだろうか。 
そうは思ってもこの状況で動くのは、かえって危険に思えた。

震源地は何処なんだろう?

これほど強く長い揺れは、今まで経験したことがない。
ガシャン! と、隣の部屋で何かが倒れる音がした。
それが、ますます恐怖心を煽った。
由依はしゃがんだまま、揺れに耐えていた。

どれくらい時間が経ったのか、揺れは収まりつつあった。
ホッとし、ゆっくりと立ち上がる。
地震の情報を得ようと、テレビのリモコンに手を伸ばす。電源を入れると、画面にアナウンサーの顔が映った。と同時に、ボンっ、という音と共に画面が消えた。
再度、電源を入れようと試みたが、何度押しても電源は入らなかった。

停電?

由依は照明器具のスイッチも押してみた。何度押しても明かりはつかない。あれだけ揺れたのだから、停電しても仕方ないというか当然かもしれない。

ラジオ、ラジオはどこにあったかしら?
確か、携帯ラジオがあったはず。

隣の寝室へ移動すると、本棚が見事に倒れていた。
単行本、文庫本が散乱している。
ため息をつき、それらを拾い始める。

そういえば、保は、保は無事だろうか?
恋人の保は隣の県の沿岸部に住んでいる。

もし、震源地に近かったら?

由依は急に不安になってきた。
隣の県だから、揺れは同じくらいか、またはそれ以上の可能性もある。

今すぐ電話したい。
リビングルームに戻り、バッグから携帯電話を取り出す。時刻を確かめる。16時を回ったところだ。
まだ、会社にいるだろう。イヤ、営業からまだ戻っていないことも考えられる。
どちらにしろ、まず電話してみよう。

恋人と言っても、保は既婚者だ。
そう、不倫の関係にあるのだ。
3年前、保が勤務する食品の卸問屋に、由依が短期のアルバイトで働いてた時に知り合ったのだ。
10歳年上の彼は、雰囲気や言葉使いが大人の余裕を感じさせた。
由依が彼を好きになり、告白した。彼は躊躇いながらも、由依の気持ちを少しずつ受け入れ、秘密の関係が始まった。

「結婚してから、運命の人に出逢ってしまうこともあるんだね。けど、僕は離婚は難しいだろう。だけど、由依との時間は出来る限り作るよ」
そう、保は言った。
由依も、先のことは分からないが、彼との時間を大切にしようと思った。
週に2回ほどしか会えなかったが、幸せだった。
由依は独身であるから、毎日でも会いたかったが、既婚の彼は毎日時間を作るのは難しかった。

関係が始まって1年が過ぎた頃、保は隣の県に転勤になった。遠距離というほどではない。車で約3時間の距離だ。とはいえ、会いたい時にすぐ会える距離ではない。会いたくて寂しくて、どうしようもない時が数えきれないほどあった。が、どうすることもできず、ただ寂しさに耐えるしかなかった。
会えるのは、単身赴任中の彼が月に2回自宅に帰って来る時、その時だけだった。

ひとまず、保に電話しよう。
着信履歴を表示させ、早速かけてみた。が、電源を切っているか、電波の届かない場所にいる、という録音のアナウンスが聞こえてくるだけだった。
一抹の不安を感じた。 

大丈夫、たまたま、電源を切っているか、電池が切れてるだけかもしれない。

そう、自分に言いきかせ、少し時間を置いてから再度かけることにした。
まずは、ラジオを探さないと。
不安を紛らわすようにタンスの引き出しを開ける。
そこで、ふと別のことに気づく。

まずは、ネットで調べたほうが早いのではないか、と。
すぐさま、スマホのニュースサイトを表示させる。

《マグニチュード7、最大震度6強、震源地は秋田県沖 震源の深さ24キロ、
津波警報発令中、津波到達時刻17時》

由依は青ざめた。あれだけ揺れたのだから、震源地は近いと思っていたが、まさか保が住んでいる地域の近くだったとは。
時刻を確かめると、16時半を回ったところだ。
まもなく津波が到達する。
動悸が激しくなった。彼の詳しい住所は分からないが、アパートの窓から海が見えると言ってたから充分に危険だ。
もう、避難したのだろうか?
いても立ってもいられない気分だ。
再度、彼に電話をかけてみる。やはり、録音のアナウンスが聞こえてくるだけだった。

いったい、どうしたらいいんだろう?

保が避難していることを祈るしかなかった。
急に寒気がしてきた。4月になったとはいえ、まだ上旬だから夕刻になるとストーブが必要だ。
だが、停電しているから電化製品は使えない。
クローゼットから、ウールのニットとダウンコートを取り出し重ね着する。
今日は勤めている洋品店が定休日だが、停電が解消しなければ明日は営業できないかもしれない。
由依は空腹感を覚えたが、食欲はなかった。

その時、ドンっ、と床下から突き上げられた。
余震?
その場に立ち尽くしたまま様子を見る。
ガタガタと横揺れが始まった。次第に揺れが大きくなってきた。足元から恐怖が這い上がってくる。

また、すぐ余震がくるとは思ってなかった。
先刻の地震ほど激しくはないが、かと言って、不安感は無くならない。

気づくと、揺れは収まっていた。
ふと、床に目をやると、携帯ラジオが転がっていた。どこからか、落ちてきたのだろう。
スマホは電池が無くなると困るため、ラジオの電源を入れる。
アナウンサーが、津波の第一波が到達したと報じていた。
由依は新たな不安に襲われる。試しに、再度彼に電話した。結果は同じだった。
もう、どうしようもない。彼が無事でいることを祈るしかなかった。
ベッドに移動し、毛布にくるまり、ギュッと目を閉じた。
「保、お願い、無事でいて、無事でいて……」
呪文のように、呟き続けた。

ハッとして目覚めた。いつの間にか、ウトウトしてしまったようだ。辺りは既に、真っ暗だ。
何か、明かりを確保しないと。
スマホで時刻を確かめると、20時を回っていた。
スマホの明かりを頼りに、懐中電灯を探すため、リビングルームへと移動する。
確か、テレビの近くに置いてたはず。
スマホをテレビの周辺にかざしながら、注意深く目を凝らす。
ようやく見つけ出し懐中電灯のスイッチを入れる。

食欲はないが、温かいものが飲みたくなった。
キッチンへ移動し、お湯を沸かしてインスタントコーヒーを淹れる。再びベッドに戻ると、ラジオから聞こえてきた報道に耳を疑った。

《海岸に、多数の遺体が漂着している模様です。詳しい人数は、まだ確認は取れていませんが、おおよそ200〜300人ではないかと推測されています》

えっ?! 遺体が200〜300人?!
あまりの恐ろしさに、由依は体が震えた。
皆、津波の犠牲者?
目蓋に、折り重なって絶命している人々が浮かんだ。現実のこととは思えない。この、平和な日本でありえない光景だ。地獄絵図に匹敵するほどだ。

万が一、その200〜300人の中に保がいたとしたら?

それは、考えたくないことだった。
ふと、振動を体が感知した。
また、余震?
ぐらぐらと揺れる感覚が、次第に大きくなる。
ガタガタと、また横揺れが始まった。
何回も起こる余震に、このまま日本が沈没してしまうのではないかと、恐怖に襲われる。

こんな時こそ、保に傍にいてほしい。

とりあえず、早く夜が明けてほしい。早く停電が解消してほしい。
由依はベッドに入り、胎児のように膝を抱え、ギュッと丸くなった。

ラジオから、海岸に多数の遺体が漂着していると、何度も報じられていた。

翌朝、カーテンの隙間から差し込む朝日で目覚めた。
そうだ、また保に電話してみよう。
繋がってほしい。そう祈りながら電話をかけた。
結果は、やはり昨日と同じだった。がっかりし、溜め息をつく。

リビングルームから、テレビらしき音が聞こえてくる。
ベッドから出るとリビングに移動し、テレビに目を向けた。アナウンサーが昨日の地震の被害を報じていた。

良かった、停電が解消されたんだわ。
保のことが気になるが、出勤の準備に取りかからないといけない。
洗面所に行こうとしたその時、テレビに映し出された光景に、目が釘付けとなった。
堤防を越えた津波が一斉に市街地に流れ込んでいた。津波は黒々とし、海水ではなく何か別の、魔物のように見えた。ものすごいスピードで次々と車や家屋を飲み込む有り様に恐ろしくなり、思わず叫んでいた。

「保!」
もし、あの津波が襲いかかった辺りに彼がいたとしたら? と考えると、不安でどうしようもなかった。

その日、出勤すると皆、昨日の地震の話しで持ちきりとなった。同僚達の中で、親族や知人が日本海沿岸部に居住しているという人は誰もいなかった。
そのせいか、悲痛な面持ちで話す人は皆無で、昨日は怖かった、津波の映像すごいね、と第三者的な立場で話すだけだった。
保のことが気がかりな由依は、皆の話しに上の空で適当に相づちを打っていた。

仕事を終え帰宅すると、急に目眩に襲われ、ベッドに横になった。
朝食は抜いたし、昼は菓子パン1個しか食べていない。
仕事の合い間に何回か保に電話したが、依然として繋がらない。
ふと、実家の両親の安否を確認していないことに気づいた。同じ県内に住んでいるが、車で2時間ほどの距離がある。
ベッドから起き上がると、由依はのろのろとした動作でバッグからスマホを取り出し、電話をかけた。
「お母さん、私、由依だけど、昨日の地震、大丈夫だった? うん、うん、そっか、良かった。うん、こっちも大丈夫よ。えっ? ゴールデンウィーク? う〜ん、まだ帰れるか分かんない。近くなったら、また電話するわ、じゃあね」
実家も被害がなかったことに、ひとまずホッとした。
とはいえ、心は晴れない。不安が重く伸しかかり、胸が苦しい。
できることなら、被災地に保を探しに行きたい。が、今は混乱の最中だろうし、危険を伴うだろう。行くなら、もう少し時間が経過してからのほうがいいのかもしれない。

被災地が気になり、テレビのリモコンを手に取り、ニュースのチャンネルに合わせる。
画面に、避難所となっている場所が映り、1人の女性に焦点が当てられていた。
「私の目の前を津波に流されていくおばあちゃんがいて、何とか手を差し伸べたけど、捕まえることができなくて、おばあちゃん、流されていったの! 助けることができなかったの!おばあちゃん、ごめんね!」
女性は悲痛な声で訴え、泣いていた。
由依は、津波に流されていく高齢の女性を想像し、涙が滲んで零れた。
その女性は津波に流されてしまったが、もしかしたら途中で何かに捕まったか、もしくは、また誰かに助けられた、ということも考えられる。そうであってほしい。だが、そうじゃないとしたら……?

頭の中で、その光景が保と重なった。考えたくはなかったが、そのようなことが絶対にない、とは言いきれない。

無駄かもしれないが、また保に電話してみた。
儚い期待は、見事に打ち砕かれた。

「保、連絡してちょうだい、心配で不安で、どうにかなりそうだわ!」
言いながら、由依はその場に泣き崩れた。


日が経つにつれ、保が生きてる可能性を信じることは難しくなってきた。
震災から既に半年が経過していた。彼からは一向に連絡はこない。
彼の会社に電話して安否を尋ねようかと思ったが、自分との関係を聞かれた場合、何と答えるべきか言葉が見つからないのと、電話する勇気がないという
両方の理由で、気が進まなかった。
日によって、恐らく彼はスマホを津波に流されてしまって、だから電話しても繋がらず、また彼からも連絡できないのではないか、と思ったり、逆に、やはり彼は行方不明か、もうこの世にいないのでは? と絶望的になったりもした。

震災の後、由依は半分死んだような心地で日々をやり過ごしていた。何かをする気力もなかったが、生活のために仕事だけは休まず続けていた。

震災以前までは、保がいないと生きていけないと思いつめていた。

でも、彼がいなくても、私、生きてる。

とはいえ、今の状態は必要最低限のことだけして惰性で過ごしてるだけだ。真の意味の生きるとは、目標や生きがいがあって、愛し愛される人が傍にいてくれることではないだろうか。

震災によって、強制的に彼との関係が断ち切られてしまったことによって、彼の存在が全てだったことを思い知らされた。
人生、何が起こるか分からない、明日のことさえも予測不能だということを思い知った。


由依は決断した。
休みを取って、被災地に行こう。
保を探すというより、彼が暮らしていた土地を見てみたいと思ったからだ。

地球が誕生した頃は、こんな風景だったのではないか? と思わせるほど、何もなかった。
所々、家屋の土台らしきものが、削り取られてかろうじて残っているような有り様だ。以前、あったであろう人々の営みを感じさせるものは、何1つなかった。

由依はカーナビを頼りに、約3時間かけて何とか辿り着くことができた。
秋田の沿岸部は、子供の頃に両親と日帰り旅行で来たことがあるが、その時の記憶はおぼろげだ。
ハンドルを握り、視界を遮るもの何1つない地域を、ゆっくりと車を走行させる。

あの日、全てを根こそぎ奪っていった黒々とした津波の映像が、目蓋に蘇った。津波に飲み込まれ、命を落とした人々を思い心が傷んだ。
保も、その中の1人だったのだろうか?

右手に見える海岸は、今は穏やかな様相を呈している。日光を反射した水面はきらめき、あの日を想像させる暗い影は微塵もない。
彼がどこに住んでたのか詳しい住所は分からない。
地震が起きた時間は勤務中であると思われるから、その時どこにいたのかも分からない。

保、あの日あなたはどこにいたの? 
海の近く? それとも、海から離れてる所?

彼が、この辺りにいたのかどうかは分からない。
でも、この景色を彼も見たかもしれない。
少し歩いてみたい気持ちになった。
車を道路の端に停め、外に出る。
思いのほか、風が冷たい。季節が秋に移行したことを肌で感じる。

保、保の住む町に来たよ、どこにいるの? 
会いたいよ……。

トボトボと砂浜を歩いていると、だんだん目尻が濡れてくるのが分かった。

ふと、海上に目を向ける。すると、ある1点に注意が引かれた。
人の頭のようなものが、ポッカリと海面に浮き出た。次第に、岸に向かって泳ぎながら? 近づいてくる。

もう、秋なのに海水浴? 寒くないのだろうか?

由依は立ち止まり、不思議な心地でその人物に視線を向けていた。
浅瀬の辺りまで来ると、その人物(恐らく、男性)
は、ゆっくりとした足取りで浜辺に上がってきた。
全身が、ウェットスーツで覆われている。
由依と目が合った。
顔が判別できるくらいの距離まで近づいて来ると、黙っているのも変な気がして、声をかけてみようと思った。
でも、なんと声をかけたらいいんだろう?
考えているうちに、
「こんにちは……」
普通の挨拶の言葉しか、出てこなかった。
男性は少し照れたような顔で、
「こんにちは」、と返してきた。

男性は、酸素ボンベ? を背おっている。
ダイビングしてたのだろうか? それなら、季節は関係ないかもしれないが。でも、どこか不自然な感じが否めない。
男性は背おっていた酸素ボンベを肩から外すと、その場に腰を下ろした。背中に疲労感が漂っている。
自分より、少し年上に見える。

「びっくりしたでしょう?」
男性が話しかけてきた。
「えっ、ええ、まあ……。 寒くないのかな、って思いました」 
由依も、腰を下ろす。
「妻を、探してたんですよ」
男性の言葉の意味を考えた。海に潜ってたということは、もしかして?
次第に、神妙な気分になり、
「4月の、あの地震と関係あるんですか?」
男性は頷き、
「妻は、訪問看護の仕事をしてました。あの日、医師と2人で患者さんのお宅を訪問している最中に地震が起きて、皆すぐに指定の避難所に行きました。妻は母親の位牌を取ってくると言って、一旦自宅に戻ったらしいんです。その時、津波が襲ってきて……。
私は、その日は出張で仙台にいました。出張してなければ、すぐに妻に連絡を取って、助けることができたかもしれないのに」
次第に涙声になり、男性は項垂れた(うなだれた)。

愛する人を失ったのは、私だけじゃないんだ。

今までは、自分だけが悲劇の主人公のように、嘆き悲しんでいた。あの日以来、同じような思いをした人がたくさんいたということに、考えが及ばなかった。
どんな言葉をかけてあげたらいいんだろう?

考えあぐねていると、再び男性が口を開く。
「妻は、ずっと、行方不明のままです。警察による捜索は、一旦終了しましたが、私は仕事が休みの日は、海に潜って妻を探すんです。見つかるまで、探し続けます。元々、ダイビングは若い頃から趣味でやってたから、まさか、こんなふうに役に立つ日がくるとは、思ってなかった」

男性の妻への想いが、痛いほど伝わってくる。

私は、そこまでできない。海に潜るなんて、怖くて無理だ。
ダイビングの練習をして、ライセンスを取れば、海に潜る恐怖感は少しは薄れていくのかもしれないが、よし、やってみよう、という行動力は湧いてこない。

男性の妻への愛情に比べると、自分の保への愛情は何だか薄っぺらく思えてきた。

私、保のこと、そんなに愛してないんじゃないの?

そんな気がしてきた。

「奥さん、見つかるといいですね、でも、すごいですね、私も、あの震災で恋人が行方不明だけど、あなたのような行動力は、私には、ない」

「そうか、あなたの恋人も……。」
男性は同情するような眼差しを向けてくる。

「僕は、妻のいない寂しさを、妻をひたすら探すことで紛らわしてるのかもしれない」
 
何か、分かるような気がする、何かしていないと、寂しくてどうしようもない。

「妻が見つかったら、僕の役目は終わりです。妻が待つところへ旅立とう、と決めてる」
由依は、一時言葉を失った。
「それは、それって、あの、ダメ、ダメですよ、そんなこと」
男性は、すくい上げるような眼差しを向けてくる。
「ありがとう、でも、もう決めたことなんだ。僕達に子供はいないし、僕の両親も、もう他界してるから、僕が死んでも誰も悲しむ人はいない」
「います! 私が!」
由依は悲痛な声を発していた。初対面の男性なのに、死の宣告をされたことに酷く動揺した。
涙が滲んでくる。
男性は穏やかな笑みを浮かべ、
「僕なんかのために、悲しんでくれて嬉しいよ、ありがとう。今日、明日中に死ぬわけじゃないから大丈夫だよ」
ただ、ただ、悲しかった。愛する人のいない毎日に生きる希望を失ってしまうのは、分かりすぎるほど分かっている。命を断ってしまいたいというのも、自分には勇気はないが理解できる。
でも、でも、男性には生きていてほしい。そう思うのは、自分がこれ以上悲しみたくないという、勝手な理由のせいでもあるが。

男性とは、もっと悲しみを分かち合いたい、同情しあいたい。こんなにいい人が消えてしまうのは、やりきれない。
「お願い、生きていて下さい。死なないって、約束してくれますか?」
目に涙を浮かべ、訴える。
「ありがとう、本当にありがとう。でも、決めたことなんだ」
男性は由依の手を取り、両手で握り締めた。
「悲しませてしまって、すまない。あなたの恋人も見つかること、祈ってる。今日は、もう1回潜ってみて終わりにするよ。じゃあ、元気出してね」
由依の手から自分の手を離すと、男性は酸素ボンベを背負い、再び海へと歩きだした。
「また、どこかで会えると、いいですね」
由依の言葉に、男性は振り返り、手を振った。

涙が、零れた。
海に入った男性の姿が、ふっつりと視界から消えた。
急に、独りぼっちになったようで、寂しさに襲われる。両手を交差して、自分で自分を抱き締めるようにする。
男性の妻が見つかってほしい気持ちと、見つかると男性の命が消えてしまうかもしれないという不安感がないまぜになっている。

思えば、震災で愛する人を亡くしたのは、先ほどの男性以外にも、数えきれないほどいるだろう。それは、恋人や子供であったり両親であったり、皆、絶望と悲しみに沈んでいる。自然災害とはいえ、なんて不条理なんだろう。
皆を救う、手立てはあるのだろうか? 

しばらく、男性が潜った方向の海を見つめていたが、やがて名残惜しい気持ちで、由依は歩き出した。


客室のドアを開け、部屋に入ると、由依は溜め息をついた。滅多にしない長距離の運転だったため、酷く疲れた。
ここは、海岸から遠い高台にあるビジネスホテル。
ベッドと小さな机があるだけの簡素な作りだ。
バッグを置くと、すぐさまベッドに体を横たえた。
「保、会いたいよ、どこにいるの? どこかで生きてるの?」
呟きながら、いつの間にか眠りの淵に沈んでいった。

ノックの音がした。
誰かが、尋ねてきたのだろうか?
でも、知らない土地だから、誰も来るはずがない。どれくらい時間が経ったのか、時間を確かめようとした。すると、再度ノックの音がして、同時に誰かが自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
「由依、開けてくれ、いるんだろ?」

保? 保の声に違いない。
でも、どうしてここにいるのが分かったんだろう?

考えるのは後まわしにして、由依はドアに駆け寄りロックを外した。
目の前にいるのは、紛れもなく、保だった。
仕事帰りなのか、グレーのスーツ姿だ。
「保? 保なのね? 生きてたのね? 良かった、ずっと連絡取れなくて、心配してたのよ」
言いながら、彼に抱きついた。
「毎日、毎日、不安で寂しくて、どうしようもなかった」
彼も由依の背に手を回し、苦しいくらい、ギュッと抱きしめる。
「由依、心配かけて、ごめん。もう、安心していいよ」
彼の温もりと懐かしい匂いに包まれて、由依は泣きじゃくっていた。
「保、もう、いなくならないでね、保……。」
涙が溢れて止まらなかった。

彼の名を呼ぶ自分の声に、ハッとして、目覚めた。
ホテルの白い天井が目に入った。
えっ?! 
半身を起こして、周囲を見回す。彼の姿は、どこにもない。
今のは、夢?
ハラリと、涙が零れた。天国から地獄に突き落とされた気分だった。

酷い、やっと保に会えたと思ってたのに。
何で? 何で夢になんか出てきたの?
よけい、会いたくなるじゃない。

絶望に打ちひしがれ、由依はひとしきり、泣いた。


小一時間、経っただろうか。
ベッドに備え付けの時計を見ると、午後7時を回っていた。
由依は空腹を覚えた。あまり食欲はないが、何か温かいものが欲しくなった。
すぐ近くに居酒屋のような店があったことを思い出す。正直、出かける気分ではないが、このままホテルにいるのも気が滅入る。
泣いて崩れてしまった化粧を少し直すと、ジャケットを羽織った。

ホテルから歩いて数分の距離に、その店はあった。
回りには、コンビニとガソリンスタンドしかない。
元々、あまり人口は多くなかったのかもしれない。
震災によって、町から転出した人も、結構いたのだろうか。

初めて入る飲食店は、少し緊張する。
どのような造りか、店主はどんな人か、客層はどんな感じなのか、という具合に。

恐る恐る、店の中に入る。
カウンターと、テーブル席が4つの、こじんまりとした造りだ。
「いらっしゃい!」
店主の威勢のいい声に迎えられた。
50代? くらいの人当たりの良い雰囲気の男性だ。
客商売だから、人当たりがいいのは当然? かもしれないが。
客はテーブル席に、仕事帰りのような男性が2人いるだけだ。
由依は、カウンターの席に腰を下ろす。
「何にします?」
店主に聞かれたが、特に食べたいものはなかった。
「う〜ん、何か温かいもの、ありますか?」
「あるよ、じゃっぱ汁なんか、どう?」
秋田にも、じゃっぱ汁があることに、少し驚いた。由依は子供の頃から時々食べているが、他県にはないと思っていた。
「はい、じゃあ、お願いします」
特に好物ではないが、勧められたから食べてみることにした。

「はい、お待たせしました」
ほどなくして、目の前に大きなお椀に入ったじゃっぱ汁が置かれた。
ふっくらとしたタラの身や、内蔵やアラがふんだんに入っている。
「いただきます」
程良い塩味のスープを飲むと、身体が次第に暖かくなっていくのが分かる。柔らかいタラの身も、しっとりフワフワしていて、心がほぐれていくようだ。
「美味しい……。」
今まで食べたじゃっぱ汁の中で、一番美味しく感じた。沈んでいた心が、す〜っと、癒されていくようだった。
気づくと、また涙が滲んできて、ほろりと頬を伝った。
「泣くほど、美味しかったのかな、ありがとうね」
店主が柔和な笑みを滲ませ、言った。
二口、三口、食べた後、おもむろに口を開く。
「恋人が、行方不明なんです」
「もしかして、あの震災で?」
由依は頷いた。
ここで、保のことを話そうとは思っていなかった。
それなのに、なぜか口に出してしまった。
「ずっと、連絡が取れないんです。生きてるのか、津波に流されてしまったのか、分からなくて」
「そうだったんだ……。」
今まで朗らかだった店主の顔が翳り(かげり)を帯びる。
「俺の周りにも、そういう人達、たくさんいるよ」
「そう、ですよね」
海岸で出会った、あの男性を思い出した。
「俺も、家や店を津波で流されたし、両親も亡くなった。全て、失ってしまったんだよ」
店主は、遠い一点を見つめて言った。

私は、保は行方不明だけど、自宅も仕事もあるし、両親も無事だ。店主に比べたら、大したことはないのではないか?
そう、由依には思えてくる。

「どうして、そんなに早く立ち直れたんですか?」
「そう、見えるかい?」
店主が聞いてくる。

自分の質問の仕方が、悪かったのではないか? と思えてきた。

「しばらく、茫然自失としてたなぁ、何もやる気が起きなかったよ。いっそ、死んでしまおうか、と思ったよ。でも、気づいたんだ。泣いてたって、何も始まらない、今は前を向くしかない、嘘でも笑えばいいんじゃないかと思った。笑うことができたら前に進めるようになったんだ、そして、この新しい場所に何とか店を構えることができたんだよ」

店主の告白に、何と言えばいいのか、由依は躊躇った。(ためらった)

「元気だから頑張るんじゃなくて、頑張るから元気になったんだなぁ」
自分で自分を納得させるように、店主は頷く。

店主が、悟りを開いた修行僧か何かのように思え、神妙な心地になる。

「何もかも失って、分かったよ。何もいらない、ってことがね」

そのような感覚は、由依にとっては新たな発見だった。

「壮絶な経験だったんですね。私は、自分だけが悲劇の主人公のように感じてました。大勢の人達が、大切な人を失ったということに、気が回らなかった」

店主は、過去を回想してるのか、しばし無言で目を瞑る。
由依は、じゃっぱ汁を一口、一口味わうように、ゆっくり噛みしめる。

再び、店主は口を開く。

「震災の前の、当たり前のような日常って、幸せだったよなぁ。失ってみて、分かるもんなんだな、当たり前が、いかに幸せかということを。今は、ここで働けることが、すごく幸せだよ」

「当たり前って、かけがえのないものなんですね」
しんみりと、由依は言った。

「彼、どこかで生きていてほしい。もしかしたら携帯電話も流されて、それで連絡できないんじゃないかと思ってます」
「そう、だな。そういうこともあるかもしれないな。これから毎日、あなたの彼が生きてるように、祈るよ。」
「ありがとうございます、嬉しいです」
「身内や、彼や彼女が、まだ見つかってない人が大勢いるから、今までずっと、見つかるように祈ってたんだ。俺以外にも、そうやって祈ってる人、たくさんいるよ」

由依は感謝の気持ちで、いっぱいになった。
自分以外の人達にも祈りを捧げる。それは、とても崇高に思えた。

「ごちそう様でした。すごく美味しかったです。
今日、ここに来て、良かった」
「ありがとうな。そう言ってもらえると、俺も嬉しいよ。また、来て下さい、待ってますよ」
「ありがとうございます。また、食べに来ます」
由依は席を立ち、代金を払った。
「話し聞いてくれて、ありがとうございます。ごちそう様でした」
「うん、ありがとう、お休みなさい」
由依は会釈し、店を後にした。
心が、暖かいもので満たされていた。


翌朝、ホテルをチェックアウトし、昨日立ち寄った海岸を再び訪れた。
水平線の彼方から吹き寄せてくる風が、由依の髪をかき乱す。
昨日、出会ったあの男性の姿は、今日は見えない。今、現在、海中に潜っているのか、それとも今日はまだここには来ていないのか。
しばし、海上の彼方を凝視する。
すると一瞬、人の頭のようなものが、パッと浮き上がって見えたような、気がした。が、次の瞬間には視界から消えていた。
気のせいかもしれない。

常に意識していると、幻を見てしまうんだわ。

あの日、ここで命を落とした人、未だに行方不明な人、全ての人に向けて、由依は目を閉じ、祈りを捧げた。

亡くなった方の魂が、死後の世界で安らげるように、行方不明の人々が全員見つかるように、と。

今も、皆それぞれの場所で、亡き人、行方不明の人に向け、祈りを捧げているのかもしれない。

保、生きていて、お願い、私、待ってるから

ギュッと目を閉じ、保の顔を思い浮かべる。
そして、思いきり叫んだ。

「保! 愛してる! 会いたいよ! 保〜 保〜
保……。」

涙が溢れてくる。
私、もう何回泣けばいいんだろう。

その時、自分を呼ぶ、懐かしい声がした。

「由依……」
ハッ、として、振り返る。

「保? 保、なの?」

由依は周囲に視線を彷徨わせる。
誰も、いなかった。
ただ、一陣の風が、す〜っと、由依の頬を撫でていった。





















































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