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2023年1月 読書記録 ポピュリズム、カフカ、カフェーの女給

筒井清忠『戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道』(中公新書)

 ポピュリズムの概念は理解できるのですが、どこまでが「国民の声を聞く」でどこからが「ポピュリズム」になるのか家族に訊かれても、答えられない。ーーということで、戦前のポピュリズムを分析しているこの新書を読んでみました。しかし、日本史専修出身とは思えないほど昭和史に疎い私にとっては良い復習になったものの、現状の理解にはつながりませんでした。家族には、「『オール・ザ・キングスメン』を観て考えてみよう。ショーン・ペン主演じゃない方ね」と言って逃げてしまいました…(「誰もが王様」というフレーズで人気を博したアメリカのポピュリスト、ヒューイ・ロングをモデルにした映画らしい。観てないけど)。

中島国彦『森鷗外 学芸の散歩者』(岩波新書)

 去年、森鷗外の小説を読み込んで、小説家・鷗外の奥深さや多様性が理解できましたが、この本では、翻訳家や詩人としての鷗外についても解説されていました。例えば、数人の仲間と共に海外の詩を訳した『於母影』は、日本の近代詩の源流と呼べるものらしいです。今後も折に触れて、森鷗外の作品に立ち返ることがありそうだと思わせてくれる解説書でした。


プルースト『失われた時を求めて5 第三篇ゲルマントの方Ⅰ』(高遠弘美訳 光文社古典新訳文庫)

 前の巻では、自分と歳の近い娘たちに憧れていた主人公が、この巻では、母親より年上の侯爵夫人に憧れるという謎展開。昔読んだ時も、このあたりが退屈で、投げ出しそうになったのを思い出しました。文庫本で14巻にもなる長さだけあって、面白い箇所も多い代わりに、退屈な箇所も多いんですよね。しかも、全てが一体となった作品なので、『レ・ミゼラブル』のように、「二度目に読む時には、ワーテルロー紀行は全部読み飛ばそう」とは思えない(そもそも、『レ・ミゼラブル』は一度で十分ですが)。
 ところで、私がこの本の再読を決めたのは、村上春樹さんの『1Q84』の影響です。翻訳者の解説によると、作中で青豆が読み終えたのは、この巻あたりまでらしい。一日に二十ページ読んで、ここまで読めたとは、青豆はあの部屋にかなり長い間こもっていたんだなと実感できました。

マイクル・コナリー『潔白の法則 リンカーン弁護士』(講談社文庫)

 アマプラ等で海外ドラマを観るようになって、海外ミステリを読む頻度が落ちました。ドラマの方が面白い…私が好きだったミステリ作家も、ドラマの脚本家やショーランナーに転向しているし。地上波ドラマとは違い、ケーブルTVやネットでは、暴力描写等に制限がかからないのもいいんでしょうね。
 そんな中、コナリー作品だけは、小説をドラマ化する際、同じ事件を別の切り口で描くような工夫がなされているので、「ドラマを観ると、原作本を読みたくなる」という相乗効果になっています。
 特に今回は、ミステリとしてだけではなく、2020年初頭、パンデミック前〜直後のロサンゼルスの状況を知る上でも興味深く読むことが出来ました。
 

カフカ『田舎医者/断食芸人/流刑地にて』(丘沢静也訳 光文社古典新訳文庫)

 光文社版の短編集第二弾。
 学生時代の愛読書、表の三作(自己紹介などに書く作品)は『高慢と偏見』『パルムの僧院』『細雪』でした。裏の三作はサリンジャー「バナナフィッシュにうってつけの日」芥川龍之介『歯車』or『河童』、そしてカフカの『変身』です。
 『変身』については、村上春樹さんの『海辺のカフカ』と絡めて書きたいと思っているのですが、なかなかそこにたどり着けず。
 先に、別の短編集が出てしまいました。
 悪夢…といっても、怖い悪夢ではなく、奇妙なシチュエーションからなぜか抜け出せずにすごく焦ってしまう…そんな悪夢を見ることありませんか。この短編集には、そうした悪夢をそのまま文字にしたような作品がいくつか入っています。カフカの有名作よりユーモアは少なめ、ただし、個人的には、そこまで身につまされるシチュエーションではないので、誰かの悪夢をハタから眺めるようにリラックスして読むことができました。


 青空文庫では、樋口一葉や二葉亭四迷の小説を読みましたが、後で別に書く予定なので、ここでは永井荷風の『つゆのあとさき』の感想を。

永井荷風『つゆのあとさき』

 昔、東京の下町に住んでいた頃、近所が舞台ということで『濹東綺譚』を読んだのですが、あまり面白くなく、以来荷風を敬遠していました。若かったので、私娼窟が舞台というだけで、偏見を持っていた気もします。
 でも、『つゆのあとさき』は良かった。戦前の小説に出てくるカフェーの女給って、何だろうと思っていたのですが、今のキャバ嬢とほぼ同じなのかな(基本給がなく、チップで稼ぐ部分はちょっと違うかも)。
 主人公の女給は、刹那的で、自己中で、でも強欲ではないので、嫌な気持ちになることなく読み進めることができます。

人間の世は過去も将来もなく唯その日その日の苦楽が存するばかりで、毀誉も褒貶も共に深く意とするには及ばないような気がしてくる。

永井荷風『つゆのあとさき』

 この引用は、ある登場人物の感慨なのですが、このような虚無感が作品を貫いているように感じました。更にこの引用を、大逆事件について書いた荷風の随筆の文章と比べてみます。

わたしはこれ迄見聞した世上の事件の中で、この折程云うに云われない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュー事件について正義を叫んだ為め国外に亡命したではないか。然しわたしは世の文学者と共に何も言わなかった。私は何となく良心の苦痛に堪えられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引下げるに如くはないと思案した。

永井荷風『花火』

 大逆事件の後、森鷗外は現代小説を書くのをやめて、歴史小説に転じました。
 鷗外の弟子である荷風もまた、事件を素通りしてしまった自分は、現実と向き合う作家ではいられないと感じたようです。そんなところから、女給や私娼、芸者といった、当時の日陰の世界に住む女性たちを描く作家になったのでしょうか。まあ、単に女好きのオヤジだった可能性もありますが…。


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