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2023年5月 読書記録 青空文庫篇 横光、檸檬、軽井沢とサナトリウム

嘉村磯多『途上』『崖の下』

 この人は先月読んだ葛西善蔵のお弟子さんです。ウィキによると、葛西と嘉村、それに広津和郎、宇野浩二を奇蹟派と呼ぶそうです(奇跡は雑誌の名前。広津はまだ著作権が切れておらず、宇野は代表作が青空文庫になし)。四人のうち、聞き覚えがあったのは、広津和郎だけ。確か芥川の友達。
 奇蹟派の特徴は私小説であるということで、自然主義文学の流れをくむのかな。
 ただ、嘉村の師匠、葛西善蔵の作品は、正宗白鳥が評したように、私にも「『暗鬱、孤独、貧乏』の生活記録の繰り返しであって、それが外形的にも思想的にも単調を極めてある。」としか思えませんでした。
 大正時代にはやった文学は、白樺派にしろ、耽美派にしろ、芥川たちの新現実主義にしろ、生活感のない小説が多いので、その意味では、貧乏な生活を書くことにも意味があったのかもしれませんが、誰でも働くのが当たり前の時代に育ってきた私には、働きもせずにああ辛い辛いと言っている小説の良さがわかりませんでした。
 
 師匠とは違い、嘉村の小説は、物質的な欠乏(貧乏)ではなく、己の醜さを見つめた作品になっています。
 自然主義文学者の中では、田山花袋が自分のおバカぶりをさらしているのがなかなかよかったですが、同じ自分の恥をさらす書き方でも、花袋の作品が笑いと明るさに満ちているのに対して、嘉村の作品はどこまでも陰鬱です。
 若い頃なら「人生をありのままに書いた作品だ」と感動したかもしれませんが、今では、ここまで稚気にあふれた人はそういないなと感じます。中学生ぐらいまでは、私自身もまわりも、今では想像もできないぐらいに無私で寛大な部分がある反面、すごく残酷なところもありました。それが、いろんな経験をするにつれ、良くも悪くもはみ出した部分が削られ、中庸に落ち着くというか(今でももちろん、欠点はありますが、人前であからさまに出るレベルではないと思いたい)。
 嘉村の場合は、子どもの美しい部分がなく、子どもの残酷さや醜さ、浅はかさなどが大人になっても残った人という感じです。その性格ゆえに人に嫌われ、そのことを自分でも気に病み、ますます生きづらくなってしまう。そんな自分から顔をそむけることなく、それを文章にしたという点で、私小説というジャンルに深みを与えた作家ではないかと思います。彼が作った土壌から太宰治の私小説が生まれたとも言えそうです(こうして私小説を並べて読んでみると、同じ私小説といっても、太宰は小説がうまいなーと改めて彼の才能に気付かされます)。



横光利一『日輪』『蠅』

 新感覚派の作家。名前しか知らなかったのですが、芥川龍之介と比べてもいいような、独特の才能を持つ作家だと思いました。
 芥川の初期〜中期の作品は、そこまで変わったことを書いているわけではないのに、彼の語り口に惹きつけられます。それと同じで、横光の小説も、ストーリーではなく、文章や語り口、作者の視点が面白い。代表作の『機械』については別に書く予定ですが、卑弥呼が主人公の『日輪』では、愛欲が暴力に発展する様がこれでもかというような濃い筆力で描かれ、『蠅』では、菊池寛ならエンタメ性抜群の短編に仕上げそうな話が、娯楽性を排した写実的な手法で描かれます。
 日本の近代に、こんなにすごい(孤高であり、異端であるという意味で)作家がいたのかという驚きにつつまれる作品でした。



梶井基次郎『檸檬』

 中学時代の愛読書を再読してみました。懐かしい。
 本屋に檸檬を置いてくるという行為は、何かのメタファーなのかもしれませんが、中学時代は、重度の厨二病にかかっていたために、「あー、こういうことやってみたい、スッキリするだろうな」と素直に受け止めていました。
 基次郎は京都にあった三高出身なので、中高と京都市に通学していた私にとって、なじみの場所が作中に出てくるんですね。寺町通りの果実屋から丸善、そして京極まで歩く主人公(京都の繁華街を歩いている)。東京なら銀座の三越から有楽町ぐらいの距離なので、真似して歩いたこともあります。丸善も行きつけの本屋だったので…が、ウィキで確認したところ、基次郎の頃の丸善は、私が知っている丸善(河原町通りの三条と四条の間)ではなく、三条通りにあったのか…。主人公はより狭い場所を移動したようです。
 二代目丸善も既に閉店して、今はファッションビルのBALに入っているらしい(前の店舗より少し三条寄り)。BALで買ったカーディガンをまだ捨てられずに持っている。何しろ、小遣い半年分の値段だったので。などという、どうでもいい記憶まで浮かんでくる小説でした。



堀辰雄
 前に読んだ『風立ちぬ』と『菜穂子』が良かったので、他の小説も読んでみました。

『聖家族』

 初期の短編。芥川龍之介の死に衝撃を受けて書かれた作品だそうです。
 前に感想を書いた大岡昇平の『武蔵野夫人』もフランスの作家ラディゲの『ドルジェル夫人の舞踏会』に影響を受けていますが、登場人物の性格やモチーフを借りているだけで、まったく別の小説です。
 でも、『聖家族』は登場人物の名前をフランス風にすれば、ラディゲの習作で通りそう。たたみかける心理描写とすれ違い、文体までラディゲと同じだし、エピソードも借りています。他人の小説にこれだけ似ている作品が、文壇に認められたというのもちょっと不思議な話です。当時の文壇の人たちもラディゲを読んでいたと思うので。ただし、文体については、私が読んだ版の翻訳者・生島遼一がこの小説を真似たのかもしれません。
 青年(堀がモデル)が、亡くなった知人(芥川がモデル)の死を受け入れて、知人を自分の内側に感じる部分だけは、後の作品につながる作者らしいエピソードだと思いました。

『美しい村』

 『聖家族』の3年後に書かれた作品。プルーストの『失われた時を求めて』の影響が強いです。今『失われた…』も読んでいるので、Kindle端末を開けた時、どちらの作品を読んでいるのかわからなくなったほどに。長々しい文章、家からの散歩道とそこでの夢想、小説を書くこと自体が作品のテーマになっていることなど、プルーストらしさがてんこ盛りで、作者の良さが埋もれてしまっているように感じました。
 堀辰雄ほどの作家でも、自分のスタイルを確立するまでは、ずいぶん試行錯誤したのだなと思いました。
 軽井沢のご当地小説としても読める作品です。

『風立ちぬ』

 『美しい村』の3年後に書かれた小説。婚約者との限られた時間の中で、幸せと安らぎを得る男の話です。ある種の諦念なのかもしれませんが、とても美しく、はかなさと永遠を同時に感じる作品です。梶井基次郎の『檸檬』もそうですが、若い頃に読んでおきたい日本文学の一つだと思います。

『かげろふの日記』

 道綱の母の作品『蜻蛉日記』を堀辰雄が翻案したもの。フランス文学だけでなく、日本の古典にも影響を受けているのですね。男を待つことしかできない受身の女が堀辰雄は好きだったのでしょうか…。


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