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人とのかかわりと私の願い

親族が亡くなった。

当時、僕は小学六年生。
正月でもなんでもないとある冬の日、突然親に連れられ、家族全員でお寺へと向かった。

枯れ木や、川の流れを横目に、山道を車で登っていく。
車内でことばは交わらない。
そうこうしているうちに赤い鳥居が見えてきた。車を駐車場に停め、そこをくぐり、本堂へと向かう。道中もとくにことばが交わされることはなかった。

寒空の下、本堂前で両親が立ち止まる。母が少し離れたところでお坊さんと話している。なにやら入るまでにまだ時間があるそうだった。
父がおもむろに僕に話した。

産まれてくる命が亡くなったのだと


「人恋しい」
ふと気が抜けたときに襲う感覚、いや本当は常にこころに纏わりついているんだと思う。自分が気づいていないだけで。

そうは思っていても、深い人付き合いをするのが苦手だ。あの日以来。
だから、友達になることも、恋人になることも苦手だ。

けれど、そんな気持ちなどお構いなしに「人恋しさ」が襲ってきて、
君がいつも胸のうちから訴えかけてくる。

寂しい、孤独は嫌いだ。ねぇもっと人とたくさんお話しよう。
抱きしめて、頭を撫でてもらおうよ。

あの日以来、人を避けて、かかわり過ぎないようにして、いつの間にか自分を信じれなくなって、人を信じれなくった。
そうしているうちに、
もう、どうして人恋しいと思うのか、どうして深い人付き合いが苦手なのかわからなくなった。
きっかけの情景は思い出せても、感情や理由がわからない。

君の声は聞こえるのに、どうすることもできない自分がもどかしい。

珈琲を飲んでいる瞬間、寝るまえ、お風呂に入っているとき、人と話しているとき、通勤しているとき。
いつでも、どこでも、襲ってくる君が僕を縛り付けるんだ。

そんな君の声を前に、どうしてあげたらいいいんだろうか。

人恋しさを埋めるために、たくさんの人に会った。

イベントに参加し、場当たり的に、一期一会的に人に会い、その場だけで付き合っていく。
エガオで話を聞いた。たくさんの話を聞いた。『人生観、これからの想い、人とのつきあいで大切にしていること。』
その話たちが、どうしようもなく、未来をみることすらできなかった去年の僕を救ってくれたし、一抹の寂しさを埋めてくれた。
そして、同じだけ自分のことも話した。自分のミノウエ話やテンボウを。

それらは嘘ではないけれど自分の核ではなくて、テンボウへ向かうための行動量の低さが周りに嘘をついている気分にさせていき、さらに人と深く付き合えなくなっていく感覚が加速した。

僕が話したい話はなんだろうか。

信じてくれた人たちに話したい自分の核はなんなんだろうか。
僕自身が信じる、信じないの話ではない、それは後から拾って纏っていったものだから。
それではなくてもっと根源的な、人と距離を置く理由を。


あの日、話を聞いてから数ヶ月、なぜか流産の話をよく耳にするようになった。流産の理由、流産した人にかけられることば..。
そして、人殺しはヒトではないと。

ストレスで流産する話を聞いたとき、「僕自身が流産の要因の一つなんだ。」当時の僕はそう思って疑わなかった。それは両親ともどもからよく怒られていたという理由から。
そう思うと同時に、一因なら、直接は手を下していない、なら僕は半分人殺しなんだ。半分化け物だな。と、いやに冷静に、その判決を自分に下した。

そして、自分とかかわった人は不幸になるんだと、自分に楔を打ち立てた。

そうして、人とかかわることを避けていった。学校や、家庭といった社会には心配されないよう、表面上は仲良く、一番深い内面は明かさないよう徹底しながら。
そうやって自分を開示しないようになった代わりに、私の、僕の話を聞いてほしいという人が集まり始めた。一対一になると、みんな『悩み、後悔、問題、思い出、楽しい出来事』をぽつぽつと話した。
僕自身も話を聞くだけで、意見は求められるときにしか言わなかったから、話しやすかったのかもしれない。

これが贖罪だと思った。話を聞き、スッキリ、笑顔になってもらう。自分の話をして楽になんて決してならない。それが人知れず、大きな罪を犯した自分自身なりの償い方だと信じて疑わなかった。
同時に、自分を不幸してもらう代わりに、自分以外の人全てを幸せにしてほしいとも願い続けた。

そうやって中学時代を過ごした、高校からはそう思うことが当然になり、意識すらしないようになった。想いは呪いとなって自分の中で溶けて交わって、取り出して見るなんて思わないくらい僕の一部になった、

その結果生まれたのが今の自分自身だ。
人の幸せを願いすぎて幸せそのもの自体がわからなくなった、接しやすいのに、近寄りがたい、本音がわからない、人にも化け物にもなりきれない半端者。それが僕だ。


人恋しい理由を、自分が話したい核を探すため、意識を過去に潜らせ、ことばへ文字へと形にすることで、わかったことがいくつかある。

まず、一つ。
深くかかわることを避けてきたのは、別れることが怖かったから。自分が要因で、親しくなった誰かと別れることが酷く恐ろしかった。

そしてもう一つ。
僕にとって、誰かのために、笑顔をために行う行動は「贖罪」だった。
とうに忘れていた事実。

じゃあ、人のための行いをこれからしていくのは僕の幸福と離れた行いになるのだろうか。
人とかかわらないことが僕の幸せなのだろうか。

わからない

自分の幸せ自体がわからないんだ。考えないことが普通だったから。


わかりたい

もういいじゃないですか。安らかに生きたって。幸せを考えたって。
もっと、奥にある気持ちを話したいのです。吐き出して、僕自身を知ってもらいたいのです。

幸福がなんなのか、考えながら、微笑みながら....生きたいのです。





ねぇ

身勝手で、傲慢な願いだけれど、僕の話を聴いてくれませんか。
みっともなくて、ちっぽけで、いつ叶えるかわからないけれど、
幸せを抱いてもいいですか。

きっと。私、僕が願い続けた、それが本当の想いだから。


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