余命10分 / 2023年7月20日 — 似ている。

母が死んでから東京のおばさんと時々会うようになった。江戸川区に住む真理子おばさんは母の姉。次女にあたるが実は正確には三女で、母は四女。幼くして死んでしまった姉がもうひとりいたらしい。

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母方の実家は少し不思議だった。

鶴ヶ城や白虎隊でおなじみの福島は会津若松市の郊外の丘の上に、母方の実家はあった。子どもの頃、春休みや夏休みに帰省すると、坂道をトンネルのように覆う桜や、燦々と降り注ぐ夏の陽射しが、木漏れ日でもまぶしかった。遠い記憶の中では、桜の花びらが舞う中で、セミが鳴いている。

丘の上にひっそり佇む2階建ての小さな家。庭にはなぜか走らなくなった小さなバスが停まっていて、大きな柿の木の枝には孫たちのためにと、手作りのブランコが吊るされていた。

隠れ家みたいなバスに忍び込んで、バスの中に捨ててあった雑誌をよみふけった思い出はあるけれど、ブランコに乗った記憶はなかった。なぜだろう。壊れていたのかな。

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祖母はやさしく、静かなひとだった気がする。だいぶ小さい頃に病気で死んでしまった。祖父は怖かった気がするけれどパチンコが好きで、景品のチョコをたくさんくれたからまぁよしとしていた記憶がある。祖父もずいぶん前に死んだ。それ以外の思い出がない。

だからというわけじゃないけれど、母にもちゃんと親がいて、姉がいて、つまり家族がいて、幼い頃というのがあって、ぼくの親になったのだ、というのがあまり想像できてなかった。母と祖父母が話していたという記憶すらないのだ。母は、姉たち、つまりおばさんたちとばかり話していた気がする。

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話を戻す。

東京のおばさんと久しぶりにゆっくりじっくりごはんを食べながら向かい合って話してみると、おばさんの顔は祖母にも祖父にも似ていた。丘の上に暮らすふたりの、あの時の面影。湖の底でシーンと静かにひそんでいる淡水魚が少しだけ動いたような、なんだか少しずつ懐かしい気持ちがよみがえってくる。似てるのも無理ない。年齢で言えば、もう祖父母が亡くなった頃の年齢になるのかもしれない。いや、越えているのかも。

そしておばさんはおばさんで、黙ったままぼくを見て、静かに「由美子そっくりだよ」と息を吐くように言って、上品にまぐろの寿司をほうばった。遠くを見るような目で、顔で、ずっとぼくを見ていた。

新小岩の駅前で、じゃあまたねと、別れる。
その後ろ姿は、母にそっくりだ。


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