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必要悪(?)の市販惣菜にまつわる言論に見る、できあいで済ませることを許されない人の持つ不公平感と画一性

1年半前のポテサラ論争と冷凍餃子論争を振り返って。スッキリせん話だった。わたしが働いておらず、しかも世話をする人間を抱えていないため、しっくりこないというか。

手抜きを「手間抜き」に言い換える言葉遊びはどうでもよくて、お金を取る仕事でないなら、料理の工程を手抜きすればいい。「お母さんの役割」への批判もわたしにはピンとこなかった。

手抜き論争において、料理の義務を負担に感じている人は、市販惣菜ユーザーを妬んでいるのではないか。いわれなき責任から逃れることができた人は、まだ多くないようだ。この国の人々は、できあい品を許されている人と許されない人とに二分されてしまった。誰もが、何を食べようが、何を家族に食べさせようが自由であるはずなのに。

市販惣菜が悪者扱いされるのを、企業は長く放置してきて賢くなかった。ツイッターでの、公式味の素冷凍食品のあの発言も、企業側ではあるけれど「冷凍惣菜を正しく使っている」2児の母によるもので、冷凍食品の負のイメージを刷新する力はない。手抜きをしたらつきまとうとされる罪悪感を、「自分は」持たないと結んでしまっては世話がない。この2児の母は、味の素冷凍食品に勤める人である。

特に、罪悪感という言葉には負の側面を見た思いがする。必要悪と見做されがちな市販惣菜について、そのユーザーが、市販惣菜の正当性を叫ぶとき、何か負い目を感じる要素があってこそ、「わたし達は罪悪感を持たない」と開き直っているように見えた。大なり小なりのやましさを抱える人が、この発言で励まされると信じたのだろう。

同じできあいでも、「デパ地下」は、惣菜はを「罪悪感なく」利用させることに成功した。「ごちそう」や「自分へのごほうび」と位置づけて、イメージ戦略に早くから勝利したデパート惣菜部門にわたしは脱帽する。

冷凍食品にありがちな、けばけばしく下品な外装は、そもそもデパ地下とは同じ土俵にいないのか。買う場所がデパ地下でもスーパーマーケットもコンビニエンスストアでも、「お母さん」など、家庭でごはん作りを担っている人が、「本来すべき」役割を果たさずに、お金という一種の卑怯な手段で済ませて反省の色もない(?)という点では変わらないのに。

既製品を買って帰ると不都合が生じる人は、苦労している身分を不公平と思うだろう。家事に終わりはないのであり、日々の料理はときに苦痛を伴う。家族内でごはんを作る役割にあっても料理が嫌いな人もいる。向き不向きがあるのだから。1回の料理にかかる労働量と心身への負担は各人により異なり、食べ物の内容がどうでもいいと思う人さえいる。

そして料理だけが手間を求められるのは奇妙。洗濯は手洗いじゃないと愛情がこもっていないと文句を言われるだろうか。掃除は自らの手を動かして清い気持ちでとか、湯沸かしは火から焚いて懸命にお風呂にお湯を張るべきとか、そういう「べき論」は聞かれない。

そろそろ、わたしのまとまらない気持ちを終わらせるときがきた。誰もがそうしないというほどの過激な考えを持ちながら。もし働いていて料理する時間やエネルギーが足りないのなら、働く時間を減らすかやめるかすればいいと思う。つまり、市販惣菜が許されない人は、それを食べなくていい環境を整えなくてはならない。料理が大切なのだったら、その時間と労力を捻出し、できあいを選ぶならば、食べさせる人に利点をわからせること。

いま日本の多くの人間にとって、もっとも重要で価値の高いものは時間である。市販惣菜を食卓に出せば、おかずを作る時間を別のことに回せる。わたし以外のほとんどは、時間を犠牲にして働く。市販惣菜の利用を責められる立場の人は、他の時間を有意義に使っているはずである。仕事をせず、家族の世話もないわたしは暇に困っており、忙しい人がうらやましくさえある。

この3年弱で国内の食生活は様変わりしたと言われる。食品のテイクアウトと宅配の文化がすっかり定着したそうだ。その一方で、多様性なるものの価値が無批判に評価されるわりに、手の込んだ家庭料理の素晴らしさに対する一元的な礼賛は変わらない。賢明なる手抜きの効率性は認められない。

参考:
ポテサラ論争のおおまかな推移を
https://www.google.com/amp/s/nikkan-spa.jp/1690341/amp

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