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الله أكبر الله أكبر أشهد أن محمدا رسول الله

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最近の記事

「人生のやり直し」は”誰にでも”認められていいのか(注:未決)

「どんな人間でも」再チャレンジ(さいチャレンジ)とは、「一度事業活動や起業などで失敗した人が、何度でも挑戦できること、また挑戦できる社会」という概念のことである。 安倍晋三が内閣総理大臣在任当時(第1次安倍内閣)に主唱した。 再チャレンジ - Wikipedia この言葉をもう少し広く粗く乱暴に、「どんな人間でもやり直しがきく」という意味で捉えてみれば、ひどい悪寒に襲われる。ある種の生体防御反応かもしれない。 もっと省察してみると、「どんな人間でも」という点に引っかかる

    • 雑記 2020-11-05

      ▼世の森羅万象を森羅万象たらしめる絶対的かつ究極的な統一原理ないし法則が存在するとしたら、たとえば我々人間がこうして進化したのも、それが演繹された結果であるといえよう。 ▼「意味」なんてものは後に発見される恣意的な価値であって、アプリオリに存在する客観的な真理ではない。「意味」を求めることに、どれだけの意味があるのだろう。 ▼多かれ少なかれ、日本人はゼロからイチを産み出すより、折衷という手法でイチをイチ以上にする民族だと思う。たとえば、やれ文明開化だと西欧諸国のいわゆる合

      • ×われわれ vs ○先端科学技術

        DX、IoT、IoA、MaaS、Society5.0、デジタルサイエンス…最近はなんだか至るところで「デジタル化」に関連したジャーゴンを耳にするようになった。ウワサによると、2045年にはAIが人間の知能をこえるらしい(=シンギュラリティ、技術的特異点)。 ぼくはド文系の門外漢なのでへえーと感心するだけだが、またいろいろととりとめのないことを考えてしまった。相も変わらずしっちゃかめっちゃかなので、とりあえず書きなぐってみる。 AI技術が超速で発展していることも、またその潜

        • 雑記:新年という病

          ▼世間的にはつつがなく2020年が始まったようだが、昨年末から本年始の約1週間を風邪でつぶした人間からみれば、年が明けたかどうかも疑わしい。とはいえ、新年だぜイェーイみたいな気持ちが皆無なゆえ、365日(2020年は366日だっけ?)気持ちは常に平常心。別に全く気にしていない。 ▼思えば、新年という言葉にも概念にも興味がない。新しい年に合わせて身も心も一新するだとか、一年の計は元旦にありだとか、「新年だから」という枕詞を以ていつもと違うことをしたがる市井の人間が皆目理解でき

        「人生のやり直し」は”誰にでも”認められていいのか(注:未決)

          「生きづらさ」を打破する兵法:概論

          はじめにこの共同体で生きづらさを抱える人間はどうやったらより良い生き方を享受/実践できるのか、超主観的な独断と偏見の下、その具体的実践方法論を展開するシリーズ(?)、第1回目。これはまた、ボクが実際に考え行ってきた結果の忘備録をも兼ねているが、今回はどういうこっちゃ?の説明から。 より良い生き方まずより良い生き方、とはどういうものか。とはいえ、人によって異なるだろうし、到達目標地点もそれに至るプロセスも異なる。幸せのカタチは人それぞれ、などとよく言うが全くその通りである。

          「生きづらさ」を打破する兵法:概論

          死後について~たとえばボクが死んだら

          きっかけは旧き知人からの連絡で何年ぶりになるだろうか、大学時代の知人が連絡してきた。基本的に来し方の交際関係の一切を絶っているこの無精者に連絡を寄こすとは、なにか魂胆があるに違いない…なんの勧誘だろう? 相手は会いたいとのことだったが、それは面倒だなあと思いやんわり拒否すると、じゃあ電話でというので、それも面倒だしそもそも電話嫌いなんだがなあと逡巡しつつ、まあ旧友のよしみだからと承諾した。 「そういえばさ、思想とか哲学に興味あったでしょ?ほら、大学で現代思想(※講義名)、

          死後について~たとえばボクが死んだら

          死の諦観~未知の怪物と闘うために

          死についてはこれまで度々言及してきた。概念としての死、観念としての死。あなたの死やわたしの死、動植物の死など、その様態は様々である。また死の価値も、いかようにも解釈される。ある人には恐怖であり、ある人には始まりで、またある人には美しい(三島由紀夫のように)。 死の不確定性は当然であろう。死は未知の世界なのだから。我々の持つ理性で死を記述しようとも、それが科学的に証明する客観的証拠として(少なくとも今現在は)機能しない以上、その記述は広く受け入れられない。時に丹波哲郎のような

          死の諦観~未知の怪物と闘うために

          感受性、共感、同情、期待、信頼

          中島義道『「人間嫌い」のルール』を久々に再読して再感化されたので、その一部のまとめをザザッと。 感受性●感受性の出自 我々は「いい」や「悪い」、「美しい」や「醜い」といった「感受性」を持ち、それをベースに各事象に評価を下す。では、これらの感受性は、どこからくるのだろうか。 感受性とは、社会的かつ文化的規則による徹底した調教の産物である。つまり、全く先天的な代物でなく、手垢がついていないナマの感受性など存在しない。敷衍すれば、その感受性が発露された感情も(泣き、笑いetc.

          感受性、共感、同情、期待、信頼

          人生指針の骨子 ver. 2019.11

          久々にビビッときて形になりそうなので、忘れないうちにメモ。 人生の目標(Goal)と、その過程で克服すべき具体的課題(What)、克服の術(How)。 Goal:「Well-being」の獲得による世の「一切皆苦」に惑わされない超然たる自己の創造 What:劣等感、ヘタレ、ガラスのハート、自己否定/犠牲、回避的人格、マイナス思考 How:内と外の自己研鑽による「自己肯定感」の陶冶 =内(精神):鈍感さの涵養 by 心理学(ex. Self-compassion、CBT)

          人生指針の骨子 ver. 2019.11

          ボクと「学ぶ」 Vol.1 そもそも論

          「学ぶ」とはなんぞや今回は「学ぶ」について、私信の意を込めて。さていつものことだが、「学ぶ」とはなんだろうか。その厳密な語義は辞書に任せるとして、生きている以上は、好き嫌い関係なく、また多かれ少なかれ我々は学び、同時に学ばなければならない。 とりあえずここでは、我々が一般的に理解しているような、つまり能動的に知識を吸収し、活かし、自身の成長につなげるまでの過程を「学ぶ」としておきたい。 意味、価値、影響ではボクにとって「学ぶ」とはなんなのか。それはボクにとってどういう意味

          ボクと「学ぶ」 Vol.1 そもそも論

          死までの”橋”を「仏教思想」とともに歩む

          人生の道程とは生から死へ掛かる一本の橋のようなものだろうが、元来何事にもひどく不器用なボクは、この世界に放り込まれてからというもの七転八倒、その橋の上を満足に歩めたことがなく、哀しいかなこの瞬間もそれは続いている。 堂々と胸を張り”橋”の上を闊歩できる「知恵」の獲得 ―― こんな病的な人生だからこそ、どうにかならないものか、ああでもないこうでもないと、無い頭を振り絞っては日々の苦心が絶えない。 そんな折、ふと考えた。 だったら気にしなけりゃいいんじゃね?と。 一見アホみ

          死までの”橋”を「仏教思想」とともに歩む

          イジメから考える処世術

          イジメから考える処世術

          さびしさ

          あらゆる可能性に自己を被投し、己を外界と接触させていく。 そういう物理的空間の延長によって、そこからまた新たな可能性が生まれ、またそれを選択する。その過程で、思考、言動、価値観を含めた、総体としての自己が陶冶されていくのだろう。 昔の哲人は、投企的存在なんて形容したけれども、ここでちょっと立ち止まってみる。なるほど確かにそうだろうが、「精神」に関しても当てはまるのだろうか、と。 「精神」、と大風呂敷を広げてしまうのはよくない。自己という総体における「精神」の陶冶はある意

          「自暴自棄」で自身を陶冶する精神的弱者 is

          夜は7時。オフィスには数人、そしてその全員が死んだ魚の目をしながらも、そこはかとない殺気を放ち、PCとにらめっこしている。 定時就業が基本のキなこの国で残業をいとわないとはなあ、と数年住んだ今でも感心してしまう。女はマジメに働き、男はフマジメを極めたのか、人によっては真っ昼間からビールを飲む光景にも以下同文。 しかしそれでも過労死を全く耳にしないのは、やはり文化や性格といったお国柄によるものなのだろうか(わざと残って残業代を稼でいるらしいが、まあおもしろそうなので後でテー

          「自暴自棄」で自身を陶冶する精神的弱者 is

          「何が楽しくて生きてるの?」

          飲みの席で久々にまた言われてしまった。それよか、また答えられなかった。 いかなる場面でいかなる意図で言われたにせよ、なんにも出てきやしない。結果、うーん…とわざとらしくポーズをとったあと、なんなんでしょうね、と苦笑をもって答えては、「はあ~おもんないなあ」と失笑を買うお決まりのパターンにもなれた。 おそらく相手はそこまで考えての発言では決してないだろうから、適当に流せばいいだけの話である。ただクソ律儀な性格が災いして、毎度頭をひねる。というか、こういう哲学チックな話題が好

          「何が楽しくて生きてるの?」

          一人の死は悲劇であるが、百万人の死は統計学的な事実である

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