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「生きづらさ」を打破する兵法:概論

はじめに

この共同体で生きづらさを抱える人間はどうやったらより良い生き方を享受/実践できるのか、超主観的な独断と偏見の下、その具体的実践方法論を展開するシリーズ(?)、第1回目。これはまた、ボクが実際に考え行ってきた結果の忘備録をも兼ねているが、今回はどういうこっちゃ?の説明から。

より良い生き方

まずより良い生き方、とはどういうものか。とはいえ、人によって異なるだろうし、到達目標地点もそれに至るプロセスも異なる。幸せのカタチは人それぞれ、などとよく言うが全くその通りである。

ただ推測するに、その中での共通項は漠然とした「幸せ」であろう。けだし問題は、当の本人がこの「幸せ」をどう捉え、了解し、価値判断するかではなかろうか。

ボクの「幸せ」

画一的な定義は難しいので、ボクが考える「幸せ」を述べておくと、「レジリエンスを備えた精神的健康(well-being)の獲得」であり、そのための過程を「自己肯定感の成長」と捉えている。

たとえカネからも愛からも人間からも遠ざかり、どんな逆境に真っ只中にいても、自分だけは自分を強く信じることができ、全く屈することない、あるいは屈しても何度でも立ち上がるような、柔と剛を兼ね備えた精神力。それが「精神的健康(well-being)」であり、それへの到達手段が、「自己肯定感」の陶冶だと自身は考えている。

「こども」

では、生きづらさを抱える人間とはどういう人種か。これも正確な定義は難しいので大雑把にまとめておくと、共同体での生活において、共通了解された様々な規範や常識を目の前に、「あゝ兎角この世は住みにくい」とひどくそしてマジメに心から悩んで傷つき、そのジレンマの中でうまく身を処せない挙げ句、それが自分自身を攻撃する武器と転化してしまうことで、心身の発達が著しく阻害され、場合によっては適応障害やうつ病等といった精神疾患を抱えてしまい、結果的にそれがまた自分自身を苦しめ…という袋小路を延々と彷徨うこの人種。

無力で非力な、いわゆる社会的弱者という意味で「こども」とでもしておこう(実際の有無はともかく、ここでは精神的幼稚さといった軽蔑的意味は含まれていないことに留意)。

「おとな」

その「こども」の対極にいる人種として、例えば自身が主体となって世界を創造しうる人や、努力の末に体得した、あるいは先天的に備えた鈍感力で全く悩みを持たない人などが挙げられる。しかしそれらより、圧倒的大多数といえる人種がいる。それは「おとな」である。

「おとな」は、自分を優先させたいが、生きるためには仕方がないと、自分を殺しつつ思考停止ないし妥協して自身をうまく共同体に迎合させることができ、なんだかんだで世間を渡り歩いている人ないし、渡り歩ける力を持つ人を指すことにする。ところでこの人種は、中島義道よろしく、「善人」とも呼べるだろう(ここに皮肉的で偽善的な意味が強く込められていることに留意)。

「おとな」>「こども」

老若男女、津々浦々、様々な形態で存在しているマジョリティとしての「おとな」は、なんだかんだで世間を渡り歩ける/渡り歩ける力をもつという点が共通する。だからこそ「おとな」は「こども」の感覚を特殊とみなし、理解できない/理解できても否定し、そして「こども」を病的かつ異端的な眼差しを向ける。

なんでそうネガティブなの、なんでそう考えるの、てかそんなこと考えたってしょうがないし意味なくない、苦しんでるのはあなただけじゃないし誰だって辛いんだよ、そもそも甘えでしょ、そんなことより仕事終わりのビールはうめえよな、そういや昨日いい男/女みつけてさー、この前パチスロで3万すっちまったよ…。

自分がどうあるべきかでなく、共同体の規範が望む人格に自分をすり合わせて自我を確立した金太郎飴のような「おとな」こそ、多くの場合”一般的”とみなされる。

歴史に基礎づけられる規範

そもそも論として、これまで長い年月をかけて人間は、法(自然法も含む)や倫理、また慣習や常識を形作り、それらを全人類の、あるいは或る共同体に属する人間内での規範としてきた。そしてまたそれは、”普遍性”をもち、大概にして無条件に”正しい”とされている。

「人を愛さなければならない」などキリスト教的教義がいい例で、~せねばならないなどの義務としてよく言い表されるが、しかしまた一方でこの規範は、”普遍的”に”正しい”とされるがゆえ、それに共感できない/しにくい/したくない人間を異端とし、排斥する。その人間こそ、悲しいかな、「こども」が該当することが多い。

「こども」を拒絶する「こども」

「こども」は「おとな」の鈍感さが理解できない。理解したくとも、そしてその努力をしたくとも、世に蔓延る規範に対し疑問を投げかけ、「従えない!」と断末魔の叫びを発してしまう病的なマジメさゆえにできない。いや、正確にはできるようになるだろうが、それには大変な努力や時間を要する。

つまり、「おとな」にはならなくとも、ただ純粋に「こども」状態から脱する願望を強く抱く「こども」にとってはとりわけ、「おとな」には想像がつかないような修行や鍛錬といった厳しい自己改革が必要なのである。

覚悟

ボクは生きづらさを抱える人間、つまり「こども」であり、またこの域から脱したいと強く思う人種である(ちなみに「おとな」にはなりたくない)。理由は単純で、少なくともボクは日々そんな苦しさにギリギリまで押し潰され、半殺し状態で生きるなんてまっぴら御免であるから。

そして冒頭に述べたように、「幸せ」、つまり「レジリエンスを備えた精神的健康(well-being)」を以て苦しみから逃れて生きたい。だからこそ、そこに至るための修行はどんなに時間がかかっても厭わない覚悟でいるし、すでにできている。

具体的実践論の兵法として

ではこの具体的な修行とはどういうものか。そのボクなりの考え方や方法、また実践した(している)過程などを、忘備録を兼ねてここに書き連ねていこうという趣旨、これが本エントリのタイトルとなった「『生きづらさ』を打破する兵法」である。

ここで自戒の念をこめて書くが、抽象的な話よりできるだけ実践的な方法論を記していきたい。戦争という概念を弁証法的に考察したクラウゼヴィッツによる『戦争論』よりも、実際の戦場でどう立ち振る舞うかを説いた孫子の『兵法』に近いような感じである(いやしかしこういう半端な知識を以て例を出すやり方は鼻につきますな)

同じ悩みを抱える人の参考になれば

ところで、あくまでもこれは自分なりの方法論であり、正しいかどうかはわからないし、そもそも自分にとって益があるか否かを主眼としたプラグマティックな話であるため、正しさは問題としていない。よって、万人受けするものとはハナから思っていない。

加えて、ここに書いていくだろう方法論は非常に荒々しく、世の常識や良心に反し、周りから人がサーッといなくなるかもしれない。しかし「こども」にとってはそれくらいのショックが必要だと考えているし、また、同じような悩みを持つ人の参考程度にはなるのではないかとは考えている。

では早速…?

とりあえず導入はこの辺にして、まずは「他者との関係編」から。

…といいたいところだが、その下書きがものの見事に消えていたので、また気が向いたら書きます。

あーあ、結構書いたのにな😔

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