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感受性、共感、同情、期待、信頼

中島義道『「人間嫌い」のルール』を久々に再読して再感化されたので、その一部のまとめをザザッと。

感受性

●感受性の出自
我々は「いい」や「悪い」、「美しい」や「醜い」といった「感受性」を持ち、それをベースに各事象に評価を下す。では、これらの感受性は、どこからくるのだろうか。

感受性とは、社会的かつ文化的規則による徹底した調教の産物である。つまり、全く先天的な代物でなく、手垢がついていないナマの感受性など存在しない。敷衍すれば、その感受性が発露された感情も(泣き、笑いetc.)同様である。

●「欲望は他者の欲望」
どういうことか。例えば、子どもが感じとる「いい」「かわいそう」「醜い」。これらは実は大人が抱いていた感受性であって、それが様々な”教育”を通して、純真無垢な子どもへと継承されたものである。痩せたネコは「かわいそう」で、それは「よろこばしい」ことではない。これは大人による「かわいそう」が伝播した結果、子もそれを「かわいそう」と感じた現象による。

つまり我々の感受性は、社会的かつ文化的規則に則った形で、誰か(親、教師、友達、本、テレビ等々)からコピーされた代物である。かつてラカンは「欲望は他者の欲望である」と述べた。私が「かわいそう」と覚えるものは、いつかどこかの他者が「かわいそう」と覚えた、いわば写し鏡のようなものであるのだ。

共感

●共有される感受性
そうして形成された私の感受性はその後、「共通感覚」「共感」として、周囲に存在する幾百人の他人と共有され、またそれは、共同体における「あるべき倫理的態度」として訴えられ、形作られていく。

もちろん、我々が成長する過程では、これは本当に「かわいそう」なことなのだろうか、と差異を見出すこともある。しかし悲しいかな、一般的にそれは多くの場合否定されてしまう。理由は単純、共同体においてそれは”そぐわない”感受性で、共感できないから。

●強制される共感と排除される私
それもそれで厄介なのだが、さらに厄介なことがある。それは、共感の強制である。すなわち、「共感”する”こと」を、共同体というフィルターが、「共感”すべき”こと」に変容させる。あなたの共感はどうでもいい、それよりも共同体として共感すべきことに共感しなければならない、と。

そして、いつの間にか私ないし私の共感は、共同体ないし共同体の共感の前から消えてしまう。共同体が「かわいそう」なことこそが真に「かわいそう」なこととして承認され、私はその「かわいそう」への服従を迫られる(従わなくてもよいが、その場合は非難や村八分など排斥の対象になるだろう)。共同体から排除される異質な私の完成である。

●個々人間と共同体に要求される共感
以上、一般的に共感は、個々人間に要求されるのみならず、倫理的態度の規範として共同体にも要求されるのである。
ちなみに余談であるが、この共感、一見単純そうで、実は非常に複雑で重要な概念である。それは、哲学から心理学まで、過去多くの先哲が研究対象としてきたことからも明らかである。個人的には、来談者中心療法で有名なカール・ロジャースにおける共感理論が実践的で好き。

同情

●「共に苦しむ」
共感に似た語として、「同情」が存在する。しかしこの同情も、一筋縄ではいかない。結論から言えば、ひどく醜いものである。

ドイツ語では同情を「mitleid」というが、それはmit(共に)leid(苦しむ)の複合語であり、「共苦」を意味する。ショーペンハウアーはこの同情に至上の価値を置いたが、対してニーチェは徹底的に否定し攻撃した。そこに自然からの逆行を促すキリスト教道徳の欺瞞性、すなわちルサンチマンとの結合を見出したからである。

●ニーチェによる同情の否定
醜い、貧しい、弱いという属性を纏う者、いわゆる弱者は、キリスト教思想からそれらを肯定する。そして対極にいる、つまり美しい、豊か、強いという貴族的価値の属性を纏う者、いわゆる強者に、憎悪の眼差しを向ける。醜く、貧しく、弱い我々は救済の対象である。弱者こそ尊い。強者は悪であり、善である弱者に同情しなければならない、と。これこそが、ルサンチマンと同情の結合であり、卑しい共謀行為である。

●醜い同情
ルサンチマンとの共謀行為を働きながら、相手を見下し、その自分は「見下していない」と自分を欺き、自己愛を満たす。これら過程を辿る同情とは、すなわち非道徳的でひどく醜い。

期待

●期待の分類
我々は、上述した共感や同情を、他人に「期待」することがある。ここで期待を深堀りすると、法的次元の期待と道徳的次元の期待に分類できる。

●法的次元の期待
法的次元の期待とは、社会的に禁じられた行為を望まない期待である。例えばレストラン。我々が注文し、出された料理を食べる際、そこに毒物が混入されている可能性を誰が考えようか。つまり、我々はその料理を作った料理人に対し「毒をいれるなんて反社会的なことしてませんよね」と無意識的にそして勝手に期待しているため、一切の躊躇なく食べる。

●道徳的次元の期待
もう片方で、こちらが実生活上で悩みのタネとなることが多いが、道徳的次元の期待。これは我々が一般的に理解している期待、つまり、相手の行為や思いやりや優しさである。「あの人の仕事はあんまり期待できないなあ」とか「誕生日プレゼント、期待してるよ」とかいう場合は、道徳的次元の期待に該当する。

●信頼があっての期待
以上のように、期待は2つに分類されるが、実はそれも「信頼」がベースにあるからこそ、期待として成立するといえる。

信頼

●信頼による縮減
人間には信頼関係が大切、などとよく耳にするが、それは文字通り、相手を信じて頼ること、が語義である。なるほど、確かに上述した期待はそれに準じているだろう。つまり、法的次元では、レストランの料理人を信頼しているからこそ、毒物の混入を疑わない。道徳的次元では、私人間の道徳的信頼、いわば相手への全幅の信頼を目指す。言うまでもないが、これらは無意識的に行われるものであり、社会の円滑化には必要不可欠である。いちいち気にしていたら当然だが社会生活などできない。これをニコラス・ルーマンは、信頼による『縮減(reduction)』と呼んだ。

●意志としての信頼
ここで少し見方を変えてみる。もし、お互いに信頼し合う関係だが、相手があなたを裏切った場合、あなたはどう思うだろうか。「あいつは私を信頼していた。私を裏切ったなんて嘘に決まっている、なにかの間違いだ」と悲嘆にくれるかもしれない。ここで、信頼に新しい説明が加えられよう。つまり、「相手への疑いを払いのけ、疑わないようにと自分を導く意志」としての信頼である。これはまた、「あるべき理想の関係を相手を築きたい意志」ともいえる。

●他者を支配し暴力をふるう支配
注意してほしい。意志、つまり「私」はあなたと理想の関係を築きたいという箇所に、私から相手への(相手から私への)”押しつけ”が垣間見えてくる。相手は私が望む関係を望んでいないかもしれない。しかし私はこうこうこういう関係をあなたと築きたいのだ、と。一方で、相手の信頼から発せられた理想の関係が示されるとき、それが私が望む関係でなかった場合、私は快く思わず、拒絶するかもしれない。そう、信頼は、善きにせよ悪しきにせよ、相手を束縛する、暴力的で支配的な側面もあるのだ。

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