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死の諦観~未知の怪物と闘うために

死についてはこれまで度々言及してきた。概念としての死、観念としての死。あなたの死やわたしの死、動植物の死など、その様態は様々である。また死の価値も、いかようにも解釈される。ある人には恐怖であり、ある人には始まりで、またある人には美しい(三島由紀夫のように)。

死の不確定性は当然であろう。死は未知の世界なのだから。我々の持つ理性で死を記述しようとも、それが科学的に証明する客観的証拠として(少なくとも今現在は)機能しない以上、その記述は広く受け入れられない。時に丹波哲郎のような人間がいようとも、だ。

ただ事実として、これが厄介なのだが、死は必ず現れる。いつかはわからない。しかしどういう形で、どういう価値をもったとしても、必ず目にみえて現れる。わたしとあなたは完全に独立しているが、唯一共有している不思議な現象、死。

多くの人は死をひどく忌避する。考え、言葉に出すことすら異常だと唾棄し、目をつぶり、逃げ隠れ、思考を停止する。将来の自分は想像を許されるのに、死ぬ自分の想像は許されない。今晩の食事は心配するのに、今晩の死は心配しない。小学生の言葉遊びのように聞こえるが、実際に昨日の晩死ななかったからといえ、今晩死なない道理はない(現実的な蓋然性は理解している)。今日、暴走車に突っ込まれ、通り魔に遭い、自然災害で一瞬にして全てを持っていかれる場面を多々目にするだろうに。

いずれにせよこのような多くの人の考え、つまり死を忌避する態度は、ボクはあまり理解できない。たとえ中二病といわれようとも、死にむかって仁王立ちで対峙することは必要不可欠であると信じる。まずもって、死は生に先立ち、死こそ生を基礎づけるからだ。

(一般的解釈として)終わりがあるから今がある。かつて道元禅師は「生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」と説き、兵法で知られる孫子も「死地に陥れて然る後に生く」と説いた。死の哲学は普遍である。

まあそんなこといっても、だ。やれ死は事実だのやれ死は重要だの、しかもお偉いさんから誉れ高き金言を賜れど、そんな簡単な話じゃないんですよ、と。死ぬじゃん?そのとき痛いのかな?苦しいのかな?なんか怖い。言葉では「怖くない」なんていうけどさ、強がりじゃね?怖いでしょ。死を前にして思想や金言がどう役にたつの?てかどうせ死んじゃうんでしょ?……なんだかんだでその気持ち、わからなくもない。

ボクの場合だが、実は死という概念それ自体には恐怖を覚えていない。そこではなく、その死から派生する二次的な精神的影響、つまり悲哀だとか絶望とかに強い恐怖を抱く。

死を目にするのは辛い。しかもそれが、人間であろうが動物であろうが、”心理的に”近い存在になればなるほど辛く、精神がやられ、しばらくは立ち直れない(心理的、がミソ。心理的に近くなければ、たとえ親類縁者でもなんとも思わない)。

だからこそボクにとって、死への対峙における目下の目標は、死から派生する精神的恐怖の克服ないし了解である。さあどうすればいいものか。

といいつつ、その解はすでにある。それは、親しい他者(動植物含む)の死の場面に多く立ち会い、慣れること。これだけ。

例えば臨床心理学には「曝露療法」という、恐怖を感じる状況に意図的に身を置き、自身を馴化させていく(慣れさせる)、主にパニック障害などに用いられる科学的な心理療法が存在する。もっと卑近な例を挙げれば、脳が我々を支配し行動を伝達するわけだが(反射という反応も存在するが)、そうとは思えない場合もある。つまり「身体が覚え、動く」という状態。スポーツを好む人には馴染みの経験ではなかろうか。

つまり元も子もないようだが、頭でわかってても限界がある。人間は強いようで弱い。オウム真理教のようにマインドコントロールでもされればコロッといってしまう。と同時に、もちろん死を理性で了解することは必要。例えば、釈尊にこんな有名なエピソードがある。

ある所に、死んだ赤子を抱きかかえて悲嘆にくれる女性がいた。その女性は悲しみから、「死んだ我が子を生き返らせて」と、出会う人全員に懇願していた。そんな折、釈尊はその女性と出会い、こんな言葉をかけた。「あなたの村の家々を周り、芥子の実をもらいなさい。ただし、一度も死人が出たことのない家からもらう芥子の実でなければならない。その芥子の実で赤子は生き返るだろう」と。釈尊からの言葉、そして何より我が子のため、女性は必死に村の家々を訪ね歩いた。しかし、どの家も首を横にふるだけで、一向に芥子の実が手に入らない。そこで女性は気づいた。そう、死人が出た家などなかったのだ。この悲しみは自分だけのものではない。生があれば死がある。それを胸に抱き、受け止め、歩み続けなければならない。釈尊はそれを教えてくれたのだ、と。

身体と精神の中庸こそ、死と対峙する武器であると信じる。生物として産まれ生きている以上、死を背負い、多かれ少なかれその恐怖に脅かされている。死をも超越すれば、この生はより輝くのではないか。

さあ、もう死は近い。

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