死までの”橋”を「仏教思想」とともに歩む

人生の道程とは生から死へ掛かる一本の橋のようなものだろうが、元来何事にもひどく不器用なボクは、この世界に放り込まれてからというもの七転八倒、その橋の上を満足に歩めたことがなく、哀しいかなこの瞬間もそれは続いている。

堂々と胸を張り”橋”の上を闊歩できる「知恵」の獲得 ――
こんな病的な人生だからこそ、どうにかならないものか、ああでもないこうでもないと、無い頭を振り絞っては日々の苦心が絶えない。

そんな折、ふと考えた。
だったら気にしなけりゃいいんじゃね?と。

一見アホみたいだが、割と核心は突いていると思う。難しい話は抜きにして、そもそもの話、気にするから気になるわけで、気にしなければ気にならない(強迫性障害等の精神疾患はその限りではないが今回は触れない)。
雲ひとつ無いよく晴れた昼下がりに、誰が月や星のことを気にするだろうか。日々人間の細胞は死ぬので今日の自分は昨日の自分と同一ではないが、誰がそんなことを気にするだろうか(じゃあなんで自分は連続しているの?という問いもまたおもしろい c.f.デレク・パーフィット)。

そこで一歩進んで、ではどうやったら気にしないようになるか、について考えた。

さあ困った、これが非常に難しい。というのも、これまたそもそもの話、生来気にする人間だからこそ、先のような疑問を抱き、考え、実際それをここにこう書いているわけだから。この世の中には全く気にならない人もいるが(実際の知人にもいる)、全くもって信じられない。うーん、なにか良い手立てはないか。

あるじゃないか。あにはからんや「仏教」に。仏教といえど、生臭坊主にカネを払って経を唱えてもらう現代のビジネス葬式仏教では決してない。ここでの仏教は、思想としての仏教(とりわけ原始仏教)という意であり、けだしそれは体系的に網羅され確立した形而上学である。ゆえに非常に難解であり、そのエッセンスを当然理解したわけではないが、我が人生の羅針盤として今現在機能しているのは間違いない。以下、若干の紹介。

例えば仏教には、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の3つから成る「三法印」という根本理念が存在する(「一切行苦」を入れて「四法印」ともする)。簡単にいえば、諸行無常は、変わらないものなんてないんだよ、諸法無我は、実体は存在しないんだよ、涅槃寂静は、安らぎの境地だよ、というところか。ただ聞けばふーんという感じだが、咀嚼すればこれがまた味わい深い。

諸行無常。過去、ヘラクレイトスは「万物は流転する」と説き、鴨長明は「行く川の流れは絶えずしてもとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」と著述したが、むべなるかな、この世の中に永遠など存在しない。桜は咲けば散り、また咲く。桜という永遠は存在しない。人間は生まれれば老い、死ぬ。盛りがあれば衰退し、光が来れば闇も来る。形あるものは消滅するが、また形なきものも同様である。

諸法無我。これを語るには「縁起の説(因縁生起)」について知らねばならぬが、これは仏教においてとてつもなく大切な概念で、これを覚りゴータマはブッタに至ったとされる。因縁とは、「因=直接的な力」と「縁=間接的な力」の関係により森羅万象は存在しており、独立して存在しているのではないことを意味する。別言すれば、関係の全体こそ事象そのものといえる。花を例に挙げるなら、種という「因」に、土や水や日光といった「縁」が作用することで、一輪の花が「生起」する。ひとつでも欠けたら花は存在しない。それは我々人間も同じであり、また不可思議なことに、我々は関係なさそうな事象にまで事実関係している。今この文章を作成しているラップトップ、厳密には無機質なキートップの集合体としてあるキーボードを叩くことにより文章が生起され、そしてまたそれを叩くボクは、このキーボードないしラップトップを組み立てた人間ないし設計した人間と関係している。つまりボクは一切独立していない。

以上、諸行無常から一時の事象・現象に拘泥する愚かさを知り、諸法無我からそもそもボクという存在を含め、一切の事象・現象は存在しないことを知る。ところで、え?と思われるだろうが、仏教では「私」という独立した存在は存在しない(ハイデガーのように「存在を存在させる存在」なんて疑問も解消するのではなかろうか)。「私」とは具体的に、「五蘊」や「十二処」「十八界」といった要素の因縁から生起するからだ。あるいは「空」というとてつもなくパンクでクールな話にもつながるのだが、それらはまた今度。

いずれにせよ、永遠に存在しない事象に執着し囚われてどうするの?それって自分が無知(仏教では「無明」という)なだけなんじゃないの?という話に帰結し、冒頭に述べた、だったら気にしなきゃいいんじゃね?につながっていく。じゃあそのための術は?となると、さすが仏教、「正見」や「正精進」といった「八正道」という8つの行いが説かれている(これもまた今度)。すげえぜ、仏教。

つらつらと書いてきたが、そんな荒唐無稽な話があるかい、と思われよう。確かに…ねえ…という気がしないでもない。ここに述べたよりも仏教思想は広く深く、また自分自身、その思想全部が全部腑に落ちているわけではない。それでもボクはそれが有用と考え、実際に有用に機能している手前、プラグマティズムの観点からいえば、荒唐無稽と断罪できない。

だからこそボクは、死という彼岸までの残りの”橋”を、仏教の智慧を以て渡りきりたいと思う。

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