「人生のやり直し」は”誰にでも”認められていいのか(注:未決)

「どんな人間でも」

再チャレンジ(さいチャレンジ)とは、「一度事業活動や起業などで失敗した人が、何度でも挑戦できること、また挑戦できる社会」という概念のことである。 安倍晋三が内閣総理大臣在任当時(第1次安倍内閣)に主唱した。

再チャレンジ - Wikipedia

この言葉をもう少し広く粗く乱暴に、「どんな人間でもやり直しがきく」という意味で捉えてみれば、ひどい悪寒に襲われる。ある種の生体防御反応かもしれない。

もっと省察してみると、「どんな人間でも」という点に引っかかる。この言葉がズバリ意味するところは、読んで字の如し、みなさんの理解ないし解釈で構わない。

そして「どんな人間でも」の例に「過去に悪行を重ねた人間」を挙げてみる。ここでは「悪行」を「他者に対し身体的また精神的に侵す行為」としてみる。いわゆる、倫理的に問題がある人間。具体的には元反社や元強盗殺人犯など列挙できるだろう。この挙例は、前述した理解ないし解釈を踏襲すれば、一応妥当であると考える。

悪寒の正体は倫理的衝突が生んだジレンマ

とここでようやく冒頭の「生体防御反応としての悪寒」が明確化される。

過去に悪行を重ねた人間が「人生やり直すぞ〜」などとぬかしながら、いけしゃあしゃあとシャバで闊歩するとか正気か?一度は人道から外れた悪人だぞ?道義的にどうなの?いやでも待てよ、意図的にしろ無意識にしろ、一度は堕ちた悪人でもやり直せる権利はあるはずだろう?これを否定した場合、それこそ自分が道義的な悪人ではないのか?

自身の倫理観と一般的な倫理観が衝突することにより生まれるジレンマ、これが引き起こした生体防御反応こそ、つまり悪寒の正体だと着地した。

✗絶対性 ○間主観性

少し脱線するかもだが、これが倫理に係る問題である以上、絶対解がないことは承知である。というのも、各共同体内における形而上的な事柄(常識、社会一般、倫理etc.)のおよそ全ては、単にその共同体の構成員間で了解しているだけの、つまり間主観性の総体であって、そこに絶対性はない。こう考えることによって、先のように解無しと断言した。

敷衍すると、その共同体の構成員の大凡がヨシと認めれば、それすなわち答えであり、これすなわち「常識」や「倫理」になるだけである。あとは受け手としての各個人に内在する思想の下、どう受け、どう咀嚼し、どう解釈するか等々、そういう個人の問題であろう。

やっぱり解せない

閑話休題。色々とぼんやり考えてみたが、やはり過去に悪行を働いた人間は許せない。より正確には、繰り返しになるが、他者を身体的また精神的に侵した人間には反吐が出る倫理観で生きているので、そやつらにはどうしてもやり直す権利を認めたくない。たとえ非人道的だの愛がないだのいわれようとも。

余談にして偏見ではあるが、そういう人間に限って「もう昔に禊はすませた」と語り、またある時は武勇伝として誇示し、またある時はそもそも悪いと思っていないサイコパスであるから世の中は憎たらしい。だから一層、である。

もちろん、冒頭の「再チャレンジ」に定義された人間のように、自身の意志とは無関係に(といってもどこまで無関係なのか厳密性を考慮すべきだが)社会の理不尽さに押し流された結果不利益を被った場合は、当然救済の対象とすべきである。またあるいは、自分の悪行が自分の範囲内で自分にだけ跳ね返ってきて不利益を被った場合は、当然情けをかける余地はない。

出発点は「他者」?

とここでこれを書きながらふと思ったのだが、この問題はどうやら「他者」がキーワードなのかもしれない。つまり、悪寒の発生源は「どんな人間でも」でなく、「他者に悪影響を与えた人間でも」であると。であれば、その否定である「他者に悪影響を与えていない人間」のやり直す権利は倫理的に妥当であるのだろうか。うーん、腑に落ちるようで腑に落ちない。というのも、「他者に悪影響を与えていない人間」について、その具体的人物像や具体的事例を以て考察できていないから。

ようわからん。ようわからんけど、やっぱりそれでも人道から外れた人間は嫌いだな。バカにされようとも、真面目が一番。うん。

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