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死後について~たとえばボクが死んだら

きっかけは旧き知人からの連絡で

何年ぶりになるだろうか、大学時代の知人が連絡してきた。基本的に来し方の交際関係の一切を絶っているこの無精者に連絡を寄こすとは、なにか魂胆があるに違いない…なんの勧誘だろう?

相手は会いたいとのことだったが、それは面倒だなあと思いやんわり拒否すると、じゃあ電話でというので、それも面倒だしそもそも電話嫌いなんだがなあと逡巡しつつ、まあ旧友のよしみだからと承諾した。

「そういえばさ、思想とか哲学に興味あったでしょ?ほら、大学で現代思想(※講義名)、一緒にとってて。そこでさ、神とか死後について話したけど、覚えてる?実はさ~」

宗教の勧誘だった

ああ、やっぱり。しかも割とヘタクソな導入(信者になってまだ日が浅いのだろうか?)。まあ人間なんてこんなもんだが、とりあえずア○ムウ○ェ○イのようなネズミ講でなくてよかったと安心。経験上、結構面倒くさいんだアレ。それにしてもこんな夜遅くに布教活動とは熱心というかヒマやなあ、なんて考えつつ、電話口では「ウン、ウン、へエー、ソレデ?」とカラッカラな相槌を打ってほぼ聞き流していた。

1時間弱ほど話しただろうか、暇な時連絡ちょうだいね、という言葉を最後に電話は切られたが、それまではずっと神を信じるかだの、死んだらどうなるかだの、まあボクが「ちょっかい」を出して話を拡げてしまっただけのだが、いわゆる形而上的な話(神学論争?)が続いた。

死後ってそんなに気になる?

神だとか死後だとか、神はさておき、特に死後についてはなんでそんなに気になるのだろうか不思議で仕方がない。「死」やその意味について考える益はあっても(これは実際強く感じている)、「死後」について考える益はなんだろうか。

過去の先哲たち、例えばウィトゲンシュタインは「語り得ぬものには沈黙せねばならない」と著述し、それより時を遡ること約2300年前の孔子もまた「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」と説き、またあるいは同時代の仏陀でさえ、弟子に問われても死後の一切を語らなかった。

死後についての信念は否定しないけど

人には宗教観や、属する社会文化によって醸成された価値観に基づいた「信念」があるので、その排除は全くしない。付言すると、ジョン・スチュアート・ミルを援用するが、他人の信念は、私に危害が加えられない限り、極力排除されるべきではないと考えている。

むしろボクは新興宗教を含め、宗教全般に寛容な人間なので(オウムのような反社会的勢力は別)、その人たちが死後をどう規定し、どう叙述し、どう行為に表わしても、へぇそうなんですね、と首肯する柔軟性は備えているつもりだ。その上で、ボク個人の価値観から断定すれば、死後について考える有用性は感じられない。

死後の世界や霊魂は信じない

その理由は単純である。信じていないから。死んだ後のことなんか考えてるなら生きる今をどうするか考えるほうが有益だ、とかそういう実利的な理由もなくはないが、それよりも死後の世界や霊魂の存在をただ信じていない。それだけ。

ヒトを含めた動植物は、死んだら死んだでハイそこまでである。その後火葬されれば灰になり、もし土葬されれば土に還り、もし鳥葬されれば鳥に喰われるだけ。横たわる遺体は、空間をただ延長している生なき物体にすぎない。

もちろんボクも遺体をみれば、仏壇に鎮座するご先祖様同様、手を合わせはするが、それは篤い宗教的信仰心より、慣習という社会儀礼に従う意味合いが強い。

以下、独断と偏見による罵詈雑言タイム

この世の中、人が死んだらやれ葬式だ、やれ戒名だ、やれ墓場だと、せわしなく東奔西走せねばならない。もうね、くだらねえ、くだらねえよ。本当に。

まず葬式なんていらなくねえか?百歩譲ってそういう儀礼が必要なら、死の処理に関わってくれた人のみが手を合わせるだけでいいじゃん。死んだ人間の遺影を前に飯食って酒のんで、な~にが故人の思い出を語ってくださいだアホ。いちいち酒をつぎに行くとかいうクソ慣習滅びろ、マジで。つか酒に飲まれたバカ、お前だよお前。酔った勢いで親類とケンカすんなやクソジジイ(これまで何人も見てきた)

え、戒名?なんであんなものに何十万もかかんの?バカじゃね?その何十万に見合った対価を生者は得られるの?そもそも戒名がなんの役に立つの?死後の世界で必要だ?知らねえよそんなもん、バカか。そのカネで銀座久兵衛に寿司食いに行ったほうがはるかに有益だわ。

墓場?先祖代々の墓場に入るとかさ、墓場を買うのに数百万だとかさ、挙げ句にはまーた親族間で喧嘩になるわけでしょ?いや人死んでるから、喧嘩してる場合じゃないから。マジ頭おかしい。てか、戒名も墓場も、そこで得たお金はぜーんぶ生臭坊主のポッケに入るわけでしょ?そもそも生臭坊主さ、死者を極楽浄土へ導くために唱えるあれ、お経っていうの?その死者の安寧とやらは具体的にどう証明されるの?死人に口はないぜ?口があって「あー極楽やわー」なんて言ったとしても、その死人が嘘をつくことだってあるよね?生きてる人間が嘘をつくんだから。

しかもその生臭坊主、法要と称して頻繁にカネをたかりに来るわけでしょう?残された人間も人間なんだよね。悲しそうな顔をして仏壇の前に座ってるけど、例えば何十万も払って得た戒名が彫ってある目の前の位牌さ、1年に何回それが重要になるわけ?それを数えるのに両手が必要なほど回数ある?マジくだらねえよ、本当に。

お葬式は残された者のための「喪の作業」

と、見苦しいヒートアップはここまでにして話を本筋に戻すと、たとえば葬式を始めとした一連の行為は、けだし死者のためでなく、残された者(生者)のために存在するんだろう、というのがボクの考え。

実はこれはエビデンスがある科学的な話。近親者を失った者は感情がなくなり、日が経つにつれ悲嘆や自己への怒りを覚え、絶望やうつ状態に変化するが、やがて故人も思い出と化し、自己の再建を図れる精神状態へと至る。このように、残された者は一定のプロセスを経て再起するというのが、フロイトによって提唱され、後にボウルビィによって確立された「喪の作業(Mourning Works、喪の仕事と訳されることもある)」である。

そのプロセスを促す潤滑油となるのが、いわゆる葬式やらなにやらの儀礼だろうと考える。だからこそ、故人のために…などという亡くなった人を主眼にした文句を聞くと、そこに醜悪な自己欺瞞を察してしまい、嫌悪感を抱いてしまう。

と、以上葬式やらの話になってしまったが、ともかく死後の世界についての信念は一切持ち合わせていない。だからこそ葬式云々への必要性も感ぜられないのだ。繰り返すが、あなたが死後の世界や霊魂の存在を信じていてもそれは全く構わない。それはあなたの信念なのだから。

たとえばボクが死んだら

ここでボクが死んだらこうしてくれ、という話をする。おそらくだが、この考えは終生変わらないはず。

まず遺体については、その辺に捨ててもらっても構わない。が、それだと死体遺棄だのなんだのうるさいから、検体に出してくれても構わないし、むしろ使えるところがあったら眼球でも臓器でも根こそぎ取り出して、それを必要としている人に授けてほしい。しかし、仮にボクに関係する残された者(ex. 家族等)がいたならば、彼ら彼女らの思いを尊重してほしい。とりあえずボクはボクの遺体の扱いに興味がないから。

そして、葬式。全くいらない。お墓、必要ない。いわんや戒名など絶対にいらない。生臭坊主に一銭も与えないよう、やつらには唾棄して蹴飛ばしてほしい。そんなドブに金を捨てるくらいなら、家の家電一式を買い換えたり、うまいものをたらふく食べて満足を得てほしい。ちなみに四十九日も一周忌も三回忌も七回忌もなにもいらない。

たぶんボクの遺体は現行法が改正されない限り火葬されるだろうが、その火葬してできた遺骨や灰はその辺にぶちまけてもいい。しかしその法律が許さないのは自明だろうから、法を遵守した上で好きなようにして構わない。野菜を育てたり、魚の餌?になったり、とにかく燃焼物を有効活用できる方向に持っていければベターかな。

しかしそれでも、望むことが2つだけある。

たとえばボクが死んだら、そっと忘れてほしい。
そして、故郷を捨てたボクの好きな、菜の花畑で泣いてくれ。

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