2021年の日記集:永遠に、自分から離れないもの

【12月31日】

ありきたりだ、と思いつつやっぱり2021年を振り返ってしまう。
でも来年に入るともう暫くは思い返すこともない気がするから、今年のうちに。記憶は本当にアテにならないので、メモを取ったり、こうして毎週書いているnoteが役に立つ。

都合の良いことだけ覚えている、忘れたいことが忘れられなかったりする。 だからは私は書く。文章にして、残す。

2020年1月、こんなことを書いていた。

・人件費(とは正式には言わない、自分の取り分)を上げる
・でも営業日(あるいは時間)は減らす
・メニューを絞る

「よし、やるぞ」 と意気込んだ記憶がなかったし、今年の頭に決めたことなんて正直覚えていなかったけれど。人件費を上げる、ということ以外はやれたんだなあ。

何かをやれた、という感覚は全然ない。 成長した、変わった、挑戦した、という感覚もない。

それを「あかんなあ」と思うことは多い。
無理をすること=変化、向上 といった考えが染み付いているのだ。
人に対しては思わないのに、どうしてか自分に対してだけ無意識に思う。

続けているだけ、こなしているだけ。それだって、立派なことだ。
意識的に、自分に言いきかせる。

自分は、平穏な日々の中で細々したことを続けるのが得意。
唐突なトラブルは苦手で、挑戦には億劫で、焦ると無力になる。

より自分のことがわかって、諦めがついた一年だった。
それでいいと納得できている。 全部"自分が"できなくてもいい。

kenohiは、2021年の夏頃から暇になった。
でもよく考えてみると、開店以来、お客さんが増えるように何か実行した覚えもない。

むしろ、2019年2020年と(開店してからの2年間)、お客さんに困らなかったことが奇跡だったのだ。自分が生活できているのは、周りの人々の助けがあるから。長期休業を得て、改めて感謝の気持ちが強くなった。

どこかで「普通にやってたら、普通に生活していける」と驕っていた部分があったのだ。そうじゃないということを、わかってよかった一年。
人生、甘くない。

"人間は「人生から問われている者」である"
"人がみずからの主観で人生に意味があるかないかを決めうるとして、人生の意味を問う構えそのものが、そもそも傲慢なものだ"
"むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。"

『NHK「100分de名著」ブックス フランクル 夜と霧』諸富 祥彦 より引用

最近読んだ、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』。

人生は私にどんなことを期待しているのか。どう応えてやろうか。
そんな風に考えると、少し楽しい…かも。

人生よ、私がどうせすぐに落ち込むと思っているんだろう。
誰かの思い通りになるなんて、まっぴらごめんだ。
なんのための個人事業主だ。

感情とおんなじだ。 込み上げてくる喜怒哀楽はコントロールできない(無くすこと/辞めること/無理やりに生み出すこと)けれど、その喜怒哀楽をどう表現するのかはコントロールできる。

人生で何が起きるかなんて、どうにもできない。
トラブルが起きる可能性を大きくしたり、小さくしたりはできるだろう。
目標を達成する可能性を大きくしたり、小さくしたりはできるだろう。

でも、100%、0%には絶対にできないのだ。
当たり前のことを、どうして忘れてしまうんだろう...。

自分ではどうにもできないけれど、それでもできるだけ叶うように。
叶わなくても、挫折しないように。

いや、挫折してもいい。動じてもいい。

人間らしさを捨てない。
心や意志、自分がどう思うのかだけは、永遠に自分のもの。
自分がどう思っても、どう反応してもいい。

来年も、自分を知り、理解し、愛することができますように。
私は今年も一年、よく生きました。偉かったです。

※この記事は、過去にメンバーシップ内の掲示板に投稿していたものを再編集したものです。

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