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本当に納得したことある?part2

納得についての記事の続きです。

前のはコレね。

前の記事には800文字の制限があって、僕の能力では纏めきれなかったんですよ。

いやー改めて思うのが、

制限の中で書くのって、自分の能力が詳らかになる気がして、すっごい恥ずかしいですね。

お題について書きたいのに、制限を守ることだけに必死になって、全然文章を纏めらんない自分に絶望を感じたんですよ、いやほんと。

なので、

改めて納得について書きますね。


本当に納得したことある?

前の記事に書いたように、

僕は何かを自分の中に得たとき、納めたときに納得感を持つんだけれど、

それは知識を獲得する感覚に近い。

単純に、知識を獲得したときに「あーそうだよね」と納得することが多いからかもしれないけどね。

ただ、知識を得たからといって無条件に納得するというわけじゃなくて、そこにはやっぱり必要条件が存在する。

まぁね、知識を獲得することだけで納得するなら、学校教育は新しい知識だらけで、納得のオンパレードだろうし、

納得しかなけりゃ、学校教育に不信感を抱いて落ちこぼれる生徒もいないだろうしね。

(、、、知らんけど)

となれば、納得できない知識もある訳だ。


納得できない

生徒の思いを汲まないで、教師が正論を押し付けることって、教育現場によくあるよね。

例えその正論が教師の言葉で、正論中の正論だったとしても、その生徒の思いに反するなら、なかなか納得できる知識にはならない。

そんなこと、簡単に想像されるしね。

ちょっと脱線するんだけど、

僕ね、中学生の頃に英語が本当に苦手というか、受け入れられなかったの。

英語の前にローマ字を習うじゃない?

そんでさ、そこで習うローマ字は、なんとなく日本語ナイズされたローマ字を習うでしょ?

例えば、えーと、

あ、色々な物の名前をローマ字で日本語を書きましょうとか言って、「あり」は「ARI」だよねって感じでさ。

それなのに、いざ英語教育が始まると「BOOKはブックと読みます」なんて言ってくる。

「いやいや、ローマ字教育の流れはどこいった!」せめて読むならボックやろ、納得できんわってなった訳です、僕は。

ある意味これは、僕の思い(読み方は統一しろよっていう)に沿わないことに納得できなかった体験とも言えなくないよね。

(分かってる、じゃあ日本語どうやねんっていうツッコミはありますよね、、)

ま、そんな感じでさ、自分の思いに沿わないことには必ずしも納得できないのかというと、そうでもない。

納得には「納得せざるを得ない」なんて言葉もあって、言葉の通り、自分の思いに反することでも納得させられてしまうこともある。

例えば、僕はイヌ派かネコ派かといえば、断然ネコ派なんですが、

Instagramなんてのを見ていたら、ちょいちょい、かわいいイヌが出てきたりするんですよ。

あれ、見ちゃうよね。

でね、その時ばかりは、「あぁ、そりゃイヌのこういう仕草が人気出るんだろうな」なんて納得させられたりする。

でも、僕は断然ネコ派のままなの。

つまり、

納得することには、正しさとか、自分の思いに沿っているかどうかなんてのは関係ない訳よ。


なにに納得するのかな?

結局ね、

僕は納得するための条件を、第三者に自分が得たものを迷いなく説明できるかどうか、だと思っている。

もっと言うなら、

第三者に説明できるということは、つまり自分の中で正しいと思えたかどうか、それが大切になる。

当たり前の話だね。


改めてまとめちゃうと、

納得したということは、第三者に迷いなく伝えることができるぐらい、自分が正しいと思えたということ。

そしてそれは、揺るぎない正解である必要もなければ、自分の思いに反していても構わない。

納得するというのは、あくまでそれが正しいと自分が思えたかどうか、その一点突破の感覚なんだと僕は思っている。

おしまい。


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