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死を想え、取り急ぎ

 今生きている人間、みんな死んだことないので、死のニワカでしかない。でも、死というものを少しでも理解するためには自分が実際に死ぬしか方法がないので、生きてる人間だけでこれ以上議論をするのは全くもって不毛である。閉廷。死後裁かれよう。

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 今、私がこうやって生きていることはこれ以上ないくらいに幸運なことである。というのも、日常のあらゆるシーンに漫然と"死"は潜んでいて、私たちは緩慢とそれらと付き合っているからだ。

 たとえば、私の家の前には一方通行の車道があって、近くの大通りに抜けるための裏道にもなっている。そのためかなりのスピードで走っていく車やトラックが多く、区切られた歩道こそはあるものの、歩行者にとってはなかなかにスリリングである。
 もし、そこを走る車が少しでも運転を誤って、歩道を歩いている私に突っ込んできたら、私はおそらく地面に叩きつけられて死ぬだろう。運転手に過失があったか、不可抗力的な要因に依るものであったか、理由はなんであれ、脆いガードレールを突き破った車にはねられて私が死ぬという結果に変わりはない。

 このように死んでしまった時点で私自身の人生は終わりである。生まれた町で過ごした20数年も、築き上げた人間関係も、旅行で訪れたあの海も山の情景も、そこですべて終わりである。

 対して、私をはねた車の運転手の人生はとりあえず続いていく。事故によって逮捕されるか、無罪放免となるか、その決議はともかく命は続いていくのだ。当事者の生と死の対比はこんなにもあっさりと残酷に描かれる。

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 日本のどこか、あるいは世界のどこかで毎日誰かが命を落とす。私がなんとなくニュースサイトに目を通すことでその死が確認され、世界からひとつ命が消えたことをなんとなく思い知らされる。名前も知らないどこかの誰かの死は、私になんの影響も与えない。それでもバスは相変わらず進んでいくのだ。
 今どこかで死んだ誰かは、愛する家族や恋人はいたのだろうか。どんな仕事をしていて、そのひとが居なくなったぶんの仕事は誰が埋めるのか。その人が住んでいた賃貸マンションの大家や管理人はどうするのか、そこにある家財道具一式はどのように処分されていくのか。そして、どれだけ経ったらその人が"生活"から完全に消えてしまうのか。そうやって消えた時、"完全な死"になるのだろうか。

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 本当に不思議なものだ。少子高齢化、人口減少などと叫ばれているが、街に出れば人はたくさんいるし、そこに"死"の気配はしない。みんな死なずに今日まで生き抜いてきたのだと思うと感慨深い。いや、生き抜いてきたというか、死ななかっただけかもしれない。生きる権利は平等にあるが、死のリスクも皆平等に抱えている。
 でもこの中には明日死ぬかもしれない人もいるんだろうな。突き抜けるように晴れたこんな日に限って、そんな結末のことまで考えてる酔狂な奴はいないだろうけどさ。

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