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アジアさすらいの日々ー中国編①(アジアへの旅立ち)

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2005年9月22日(木)

今改めて見てみれば、何と陰鬱な光景なんだろう。空はネズミ色の厚い雲に、海は生命など感じられないほど濁った水に覆われていて、こんな世界に生まれて来たならば明るい未来なんて描けないだろうと想像する。

しかしその時の僕にとってはこの光景の中にある全てのものが貴重で、未来を切り開いてくれる存在に見えた。実際、この場所から始まる一連の経験はその後の僕の人生を大きく変化させることとなった。

中国屈指の経済都市、上海。それは僕が日本以外で踏み入れることになる初めての土地であり、上陸まであと1時間程度に迫っていた。

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9月20日(火)

出発の日は早朝、というより深夜からからずっと気分が高揚していた。ようやく新しい世界へ足を踏み入れることができる、そんな気持ちの高ぶりから午前3時には目が覚めていて、出発の時間にもなるともう思い残すことは何一つなくなっていた。そして午前7時、ししゃも・目玉焼き・納豆という、昔実家に住んでいたときによく作ってくれた母の手作りの朝食を腹に納め、その後しばらく会えなくなるであろう両親に別れを告げて意気揚々と自宅を後にした。

自宅は大阪の北の外れ、奈良と京都との県境あたりに位置していて、フェリー乗り場からはJRで約1時間半だったが、ちょうど出発の時間はラッシュアワーだった。そのどんよりした車内の中で、最後に日本の雰囲気を忘れずにおこうと周りの乗客を見回している僕を見て、おそらく鬱陶しく思われていたに違いない。しかしそんなことは一切気にせず、世界を見たいという好奇心に満ち溢れ、輝く未来だけを想像していた21歳の僕はまさに青春を謳歌していた。

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コスモスクエア駅、そんなゲームにでも出てきそうな名前の駅の近くにフェリー乗り場はあった。名前からしてSFチックな空間をイメージしていたが、そこは人の気配がほとんどなくコンビニさえなかなか見つからないような場所だった。高いビルはあちらこちらに見えるものの、まるで日曜のオフィス街のように閑散としていて、道を歩く人もほとんどいなかった。だがそれに怯むこともなく、もの寂しさで埋め尽くされた道をフェリー乗り場までまっすぐ歩くと、そこには「新鑑真」と書かれた船が威風堂々と港に停泊していた。最もそれは旅立ちに胸を膨らませている僕が抱いた印象で、他の人から見れば「なんだこの汚くてボロい船は。こんな船に2日も乗るなんてついてねえぜ」とため息が出るようなレベルなのかもしれないけれど。
(下の写真が「新鑑真号」。インターネットで収集できる写真は得てして豪華に写っているものである。)

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ちなみにこの「新鑑真」という船は、大阪港もしくは神戸港から上海港を結ぶ、バックパッカーの間ではちょっと知られた船であり、金はないが暇と体力だけは有り余っている物好きには人気の船で、毎週火曜日の朝、日本を出発して木曜日の朝に上海に到着するスケジュールとなっていた。しかし2020年9月現在、Googleで「新鑑真号」と打てば、検索予測で一番上に表示されるのは「新鑑真号ブラックリスト入り」である。理由は不明。

9時50分。出港まであと少し。幸運にも近くにあったコンビニでおにぎりとお茶、レモンのタブレット菓子を買い、船に近づいていくと徐々に中国語を話す人の割合が増えてきた。そしてベンチに腰を下ろす暇もなく、早くも入船の時間となった。受付らしきゲートでパスポートとチケットを見せると簡単に船内へ入ることができ、入り口をくぐるとすかさず乗組員らしき中国人女性が部屋まで案内しようと近づいてきた。彼女は全くと言っていいほど笑顔を見せず、むしろ不機嫌な顔で僕を案内したのだが、日本では見かけることのないこの対応に僕は苛立ちどころかわくわく感さえ抱いていた。

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最も安い片道2万円のチケットを買ったということもあって、部屋は非常に簡素なもので2段ベッドが4台、部屋の角に所狭しと並べられていた(下の写真はサンプル。雰囲気はこの通りだが、テレビは当時なかった)。場所は特に決まっているわけではなさそうで、不愛想な女性乗組員にどのベッドがいいか聞かれた僕は左奥の上段ベッドを指さした。女性は「これで私の仕事は終わりだから」と言わんばかりに足早に立ち去ると、彼女とすれ違うようにすぐに他の乗客が部屋に入ってきた。だが旅立ちの瞬間を1人でじっくり味わいたかった僕は、特に挨拶もせずチェーン錠でカバンをベッドの縁につなぎ、そそくさと甲板へと出ていった。

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いよいよ出港の合図の音が鳴る、と共に旅が始まったという実感が徐々に湧き上がってきた。甲板の上は9月下旬の爽やかな風が吹いていて、大阪湾の水面には太陽の光が反射していた。船体が波を切る「バシャーバシャー」という音や、時折目にする魚たちの影は旅立ちを祝っているかのようで、僕はこれ以上ないほどの幸福感に包まれていた。

出港して30分くらい外に出ていただろうか、これから新しい土地に一人で飛び込むのだという喜びをかみしめていると、何とも言えない感傷的な気分も湧き出てきた。外国へ行くということは同時に日本を離れることも意味している。その時の僕の99%は幸福とわくわく感で占められていたのは間違いないが、残りの1%は寂しい気持ちもあったのだと思う。何しろこの時点から、半年ほどは日本に戻らずにアジアを放浪する事を決めていたのだから。

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