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文系と理系の違いって? ーあえて文系偏重で物申すー

日本では高校生から、勉強の得意科目などによって「文系」か「理系」かという選択をすることになります。

が、正直そんな選択など関係なく、わりと幼い頃から「私は文系だから」「あなたは理系だね」などと言っていることもしばしば。
そして、文系の人はどうだとか、理系の人は文系とは対称的でとか語られます。

私、人間の性質を、属性でひとくくりにして決めつけるの嫌いなんですよ。

けれども、勉強における得意科目の違いや、それに合わせて学んできた学問、就いてきた職種の違いなどで、性格や考え方に何となく傾向が生まれてくるということは実際あるように思います。

では、文系の人と理系の人ってどう違うの?どっちの人の方がいいの?
それを知るためには、百聞は一見にしかず。両方の世界を見てみるしかない。

てなわけで両方の世界に浸かってみたら、世間で言われていることとは違うものが見えてきました。
以前からずーっとまとめたいと思っていたこの内容、今回ついにまとめてみます。

文系と理系 世間一般のイメージ

まず整理しておきたいのは、文系、理系、それぞれに対して、世間一般ではどんなイメージを抱かれているか。

まず、文系より理系が秀でているというイメージがあります。
理系の人は数学や理科が得意で、文系の人はそれらが苦手。

数学や理科が出来るのが偉いというイメージ作りは、国によってもなされていますね。
国が大学の理系学部ばかりに経費を投入しようとしたり、文学部を廃止しようとしたりすることによって。
そこから生まれる、理系は偉い、理系が生き残るというイメージは子どもにも刷り込まれ、どれだけ国語が出来ても数学が出来ないと落ち込むような子がいる状況は、おそらく珍しくないものと思います。

また、文系の人は感情的、理系の人は理性的という印象も強いことでしょう。

国語と数学との違いを想像してみると、国語は小説の登場人物の心情や筆者の言いたいことなどを考える勉強が多く、数学は無機質な数字という概念を用いて半ば機械的に1つの解を出していく勉強をするという違いが見えます。
こうしたところから、国語のイメージの強い文系は感情的、数学のイメージの強い理系は理性的と捉えられるのではないでしょうか。

私が文系の世界で体得したもの

実は、理系が偉いと思っている理系人間の母に育てられ、どこか劣等感を抱きながら文系に居続けた私。
そんな私が文系の世界で身につけたものとは何だったか。

文学部国文学科で、特に日本近代文学への学びを深めるべく小説をたくさん読んで過ごした大学4年間を振り返りながらまとめますね。

国文学なんていったら、世間では最も「なんの役に立つかわからない」と言われそうな、文系of文系の学問でしょう。
そこで最も身についたと思うものは、論理的思考力です。

え?って思いました? 感性とか感覚とかって言うんじゃないかと……??
そんなわけないです。学問ですから。

ロジカルシンキングですよ。論を提唱するためには、論理的に、他の人達の論を引用して補強して、他人を納得させられるよう理詰めをしていかねばならない。
それはどの学問においても同じはず。
小説ばかり読んでいる印象かもしれない国文学でも、同じです。

ただ、文学は数字で測れないんです。
理系分野と違って、定量的に示すということが出来ない。なぜなら、人の心や動きに焦点を当てる学問だから。
人の内面的な部分を数値化するってのがよっぽど不可能であるのは、想像に難くないと思います。
(心理学なんかは人を数値化し普遍化する側面があるかと思いますが、小説に出てくるような人間は大抵普通じゃないですし、そうでなくとも一個人を研究するにあたっては、やはり数値化できる内容はほぼ無いと思います。)

数字で測れないということは、論の説得力はことばの使い方で持たせていくしかない。
ことばをいかに正確に使用するか、ことばで人を説得するにはどうすればいいのか、と考えていくうちに、論理的思考力が身についていきました。

また、こうして論理的に小説を分析してきたおかげで、日常生活でも、人の感情や人間関係といった部分を俯瞰して読み取るのは得意になったように感じます。

ゼミで激論を重ねられるメンバーと巡り会えたおかげで、自分の意見を臆せず人に伝えるというスキルも随分と鍛えられました。

私が理系の世界に飛び込んで見たもの

さて、文系の世界で散々鍛えられ、まだ見ぬ理系の世界へと意気込んで飛び込んでみた結果はどうだったか。

結論から言います。

「あれ?理系の人って感情的だな」と思いました。
世間一般の、理系の人達は理性的だよねという話はどこへ行ったのだろうと思いました。

所属していた会社の中の人々を見ていると、会話や物事の判断がどうも直感的に見えるんです。
会話でいけば、相手の予備知識がないところに突然本題から入って「え、何の話をしているの?」となるような会話が当たり前。
物事の判断という点では、いきなり結論をポンと出された時になぜそうなったかを聞くと「いやぁ、これでいいかなと思って」と理由になっていない理由が返ってくることがざらにある。

プライベートならともかく、仕事上での話。
会話には相手に伝わる程度の論理性が必要ではないのか? 何かをする時には根拠を持ってやらねばならないのではないのか?

ただでさえ、人と協力していかないと作りようのない規模のもの(自動車)を作る会社なのに、これほど直感的に物事を進めようとされては、コミュニケーションも取れなければまともな仕事もできない。

会社側も「コミュニケーションを取れるようになりましょう」と耳にタコができるほど言う一方、コミュニケーションを取るための道具である日本語(日本語使用の日本企業であり日本語ネイティブの人が多数な会社における“日本語”なので、つまり母語・母国語の意とほぼ同義)を大切にしない。
この態度も、私にはあまりにも論理性に欠けるように見えました。

ただ、全ての理系の人がそうというわけではありませんでした。

配属先の大手自動車メーカーの社員の方々は、むしろコミュニケーションを円滑に活発に取っている様子で、話も明快でわかりやすい方がほとんど。
質問をした時も、返ってくる回答の内容がしっかりと質問事項と噛み合っていました (本来、質問の仕方が真っ当ならばこうあるのが当然ではないのかと思いますが……)。

資料などの作成にあたっても、このことば遣いで通じるかどうか、もっと言い回しを変えた方が伝わるのではないかなどとしっかり考えてらっしゃる方が多かったです。

この差がどこで生まれているのか。
私は「数字の上にあぐらをかいているかどうかの差」と見てとりました。

理系の人の中で大きく割れていた2タイプ

理系の方々はおしなべて、数字には強いんです。
そして、実験結果や成績などの数字の出るものについては、必要な数字を出して提示することで説明しようとします。

ただ、一定数の人は「数字そのものが万能である」と思っているのでしょう。数字に頼りすぎてその数字を示すだけ示して意味を説明しない、あるいはできない。
数字で説明出来ないこと(人の感情など)については、説明を放棄して「なんとなく」で終わらせてしまう。
このことを私は、数字が偉いと思って数字に頼りきりになっているという意味で「数字の上にあぐらをかく」と呼んでいます。

一方、あぐらをかいていない人は、数字を取り入れながら、ことばで物事を伝えられます。あるいは伝えようとします。
意思を伝達するための道具として、ことばを使用しようとします。

所属していた会社と配属先の会社とで「数字の上にあぐらをかく」人とそうでない人にほぼ見事に割れてしまった理由は、おそらく学力レベルの差です。

学力で人を判断するというのも本来したくないことではありますが、理系でことばもある程度操れる人というのは、学校生活でも国語ができる分成績がよく、ある程度のレベルの大学に進学でき、レベルの高めな大学・大学院にいるため大企業に就職する場合が多くなる。
だから必然的に、大企業である配属先の会社の方がことばを使える人が多かったのではないでしょうか。

無論、“数字アレルギー”を自称する人が現れるほど数字に拒否反応を示す文系の人達の間では、「数字の上にあぐらをかく」人達はそうそう生まれないことと思います。
ことばをどれだけ大切にしているか、というところには個人差は出るでしょうが、理系の人達ほど大きくは二分されないことでしょう。

理系偏重の世の中だからこそ言いたい

さて。ここまで一通りの体感を得てきた自分は、改めて疑問に思います。

なぜ世の中では、理系が偉いというような見方をされているんだ?
理系の一部は文系を見下し、文系の一部は理系の人達みたいに頭良くないからと萎縮する、この差は何なんだ?

上の疑問への答えはおそらく、科学技術を発展させ物質的に豊かになるべく、長きに渡り理系がもてはやされてきたから、ということなのでしょう。
理系になれた人は勝ち組、なれなかった人は文系に入る負け組、という構造が昔は(男性に)あったと聞きます。その感覚が今なお残り続けているのでしょう。

だったら。

だったら私は、あえて「文系偏重」で言いましょう。

文系は偉いぞ。
なぜなら、数字で測れないものをも分析できるから。
理系は数字で測れるもの、つまり物質しか論理的に測れないことになるけれど、文系は人の感情だって論理立てて説明出来る。だからこそ数字以外のものの大切さも知っていて、そこに目を向けられるってこと。

文系は偉いぞ。
なぜなら、コミュニケーションが取れるから。
仕事をする上では、今や理系職に就いてもコミュニケーションが必要ですと言われるんだ。数学や物理はテキスト見ればできるし、いつかはAIがやってくれてしまう。でもコミュニケーション力は、一朝一夕には鍛えられない、人間特有の力だ。文系はその力を備えている。

……どうですか?
多少は「文系も理系に劣っているわけじゃないんだな」などと思ってもらえましたか?


さて。
私は、あえて「文系偏重」気味にここまで記事を書いてきましたが、決して「文系より理系が勝っているぞ」と言いたかったわけではないんです。

理系は優秀、文系は劣っている
理系は理性的、文系は感情的
理系は社会の役に立つ、文系は役に立たない

そういった感覚が広がっている社会に対して、そうでもないなと思ってもらえるような、違う視点を提供したかっただけです。
そして、それを文系サイドから語るのではなく、文系理系両方の世界に漬け込まれる経験をした上で語りたかっただけです。

文系は、人間が人間としてより善く生きるためにあるものだと考えています。
理系は、人間が物質的により豊かに生きるためにあるものだと考えています。

どちらが優れているか、という話ではないんです。
どちらも対等に、相互に補い合いながら、人間生活をより善く豊かにしていくことに意義があるんです。

だから、どうか理系の方々には文系を見下さないでほしいですし、文系の方々には理系に過剰に畏怖の念をもたないでほしいです。
どちらのことも「すごいなぁ」と思って、出来れば違う視点を持つ者同士で意見交換をしながら、広い視野を持とうとする人が1人でも増えることを願います。

現状、自分の生き様や思考を晒しているだけなので全記事無料です。生き様や思考に自ら価値はつけないという意志の表れ。 でも、もし記事に価値を感じていただけたなら、スキかサポートをいただけるとモチベーションがめちゃくちゃアップします。体か心か頭の栄養にしますヾ(*´∀`*)ノ