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宝塚歌劇の娘役が「女」役ではなく「娘」役である理由

以前からこのnoteの記事では宝塚歌劇の男役について、様々なことを書いてきたが今回は娘役について書いてみようと思う。
私が今のようなヅカファンになったのは小学3年生の頃だったが、まだまだ子どもで物事を深く考えられなかった私は、常にこのようなことを思っていた。
なぜ宝塚で男性の役を演じる人は「男」役なのに、女性の役を演じる人は「娘」役なのだろう…と。
物事を深く考えることが苦手だった小3の私は、男性を演じる人が「男」役なら、女性を演じる人は「女」役となるはずだと、よく考えることもなくずっとそう思っていた。
成長して大学生になり、好きなものに思う存分時間を費やすようになってからというものの、ますます宝塚に没頭するようになった私は「男役」が一体どんな存在であるのかということを考え、それを文章にしてこのnoteに投稿した。
「男役」という存在を考え、文章にしていると、不思議なことに私が小学生の時に抱いていた「娘役」に対する疑問が解けていった。
小学生の頃、なんで宝塚では女性の役を演じる人は「女」役ではなく、「娘」役なのか…と抱いていた疑問が解けていったのである。
今回はそのことについて、文章にまとめてみようと思う。

現実とひと続きな存在ではないことを示すための「娘役」という言葉

宝塚歌劇の娘役が「女」役ではなく、「娘」役である理由。
それはずばり、宝塚歌劇の舞台において女性がそのまま女性の役を演じていながらも、その存在は現実とひと続きな存在ではない、ということを示すためである。
女性が女性を演じる以上、役者本人が属する性別、つまり舞台を降りた現実世界でも役者本人として存在可能なものをそのまま役に反映させることが可能であるが、そのようなことをしてしまうと「娘役」は現実とひと続きな存在になってしまう。
「男役」「娘役」、その両方共が現実とひと続きな存在ではなく、架空の存在であることによって、初めて舞台上で男女関係が成立する宝塚歌劇の世界。
そんな宝塚歌劇の世界では、「男役」と「娘役」その片方だけでも現実とひと続きな存在になってしまうことは禁物である。
女性の役者がそのまま女性を演じるため、現実とひと続きになりやすい宝塚歌劇の舞台に登場する女性たちであるが、「娘役」という言葉を当てはめることによって、舞台上に登場する女性たちが、役者自身の現実での性別をそのまま反映させて創りあげられた存在ではなく、あくまでも現実とは完全に切り離された存在であることを強調、示しているのである。

生まれついた女性という性別をそのまま「娘役」に反映させる訳ではないということ

宝塚歌劇の世界において、男女の関係性が描き出され、その架空性と幻想性が最大限に引き出されながら作品が制作されていく以上、「男役」と「娘役」の両方共が現実とまったくひと続きではない、架空の存在であるということは絶対に必要な条件なのである。
「男役」がいるからこそ「娘役」の存在感が引き立ち、「娘役」がいるからこそ「男役」の存在も引き立つ。
「男役」には「娘役」、「娘役」には「男役」という、どちらも他の場所には絶対に存在しない架空であるために、互いの存在が他の何者にも代えがたいという特殊なその関係性は、互いの魅力をますます引き立てる。
互いに架空である「男役」と「娘役」の相互作用によって、宝塚歌劇の世界における男女関係はより魅力的に、より独創的に描き出される。
宝塚歌劇の世界では、圧倒的な人気を誇る「男役」が大輪の薔薇であり、「娘役」はそんな大輪の薔薇である「男役」と引き立たせるためのカスミソウだと言う人がいるが、私はそう思ったことなんて1回もない。
確かに常に主演を務めるトップスターという地位を務めるのは「男役」だし、ファンからの人気を集めているのは「男役」?「娘役」?というのを考えると、やはり人気を集めるのは「男役」であるのは事実である。
しかしながら、「男役」と「娘役」の両方が架空の存在であって初めて、男女関係が舞台上で成立するというのが宝塚歌劇の世界なのである。
いくら「男役」の人気が高かろうと、それに対応する唯一無二のバディ的存在である「娘役」が架空になりきれていなければ、「男役」が「男役」として存在することなど絶対にできない。
つまり「男役」が現実とひと続きな存在になってしまったら、その男女関係は一瞬にして崩れ去ってしまうし、逆に「娘役」が現実とひと続きな存在になってしまっても、その男女関係は一瞬にして崩れ去ってしまう訳である。
「男役」と「娘役」は精密な歯車のような関係性なのだ。

ただ、「男役」が現実とひと続きな存在になってはならないということの意味と、「娘役」が現実とひと続きな存在になってはならないということの意味の間には、大きな非対称性がある。
「娘役」の場合、女性の役者が女性の役を演じるため、「娘役」を務める役者は自分自身が生まれついた性別…、つまり現実世界でも役者本人として存在可能なものをそのまま、「娘役」に反映させてしまうことができるからである。
つまり「娘役」は「男役」に比べて、少しでも間違えると現実とひと続きな存在になってしまいかねないのだ。言い換えれば、「娘役」は「男役」に比べ、圧倒的に現実の存在に戻ってしまいやすいのだ。
現実世界でも役者本人として存在可能なものである、役者自身が生まれついた性別を「娘役」というものに少しでもそのまま反映させてしまうと、「娘役」は現実とひと続きな存在になってしまう。
「娘役」が現実とひと続きになってしまえば、宝塚歌劇の世界における男女関係は瞬く間に崩れ落ちる。
宝塚歌劇以外の場所では女性の役者が女性の役を演じる時に、そのまま自らの性別を役に落とし込んだとしても、その役と作品の世界観が崩れ落ちることは少ないかもしれない。が、宝塚歌劇はそうもいかない。
「娘役」は、女性の役者が女性を演じるからと言って、舞台を降りても役者本人として存在可能な、自分の元々の性別を反映すれば成立するような単純な存在ではないのである。
架空の存在である「男役」と同じ世界線を生きなければいけない以上、元々生まれついていた女性という性別、つまり現実世界で役者本人としても存在可能なものを、そのまま「娘役」に反映してしまってはいけない。
生まれついていた女性という性別とはまた別の、「娘役」という次元を生きるのである。「男役」が「男役」の次元を生き、「娘役」は女性ではなく「娘役」の次元を生きる。そのことによってはじめて、宝塚歌劇の世界において男女関係は描きだされることができる。

女性だけの舞台で女性がそのまま女性を演じるということ

女性出演者のみの舞台で女性が男性を演じ、女性が女性を演じることを考えると、一見女性が男性を演じる方が遥かに難しいことだと思われがちである。
しかしながら、女性が男性を演じるという架空が生み出される以上、自分と同じそのままの性別の役を演じるため、一見簡単だと思われがちだった女性が女性を演じるということにも、架空が求められてくる。
舞台上に出てくる女性を、女性が演じている男性と同様な架空にするために、自分が生まれついた女性という性別を、自分が演じる舞台の女性には反映させてはならないということが、女性を演じる人々には課されていく。
そんな人々が直面していく難しさと、女性が女性を演じていながらも、その存在は現実から完全に切り離された架空であるということを示す言葉として、「娘役」という言葉は存在しているのである。

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