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”生まれつき”の不自由さに対抗する夢の世界 ~宝塚男役と歌舞伎女方について~

親や性別、生まれる場所、名前、容姿…。挙げればキリが無い。
私たちは生まれた時点で、自分の全く意図しないところで、望んでいないのにも関わらず決められたものをたくさん持っている。
そして、それが原因となって引き起こされる苦しみや葛藤に悩まされては、自分が望んで決めたわけじゃないのに…、と、その理不尽さに涙が出そうになる。
幼い頃から私は常にそう思っていた。望んだおぼえは全くないのに、私はなんでこの名前で、この性別で、この親で…、とひたすら思っていた。望んでもいないのに決められていたものによって、自分自身という人間がしばしば縛られていることを感じては、その不自由さを嫌っていた。
そんな私は、いつしか創作の世界にハマるようになっていた。文章を書くのがもともと好きだったのはあるが、なんといってもその自由さが堪らない。
自分で名前や性別を決め、生まれる場所を決め、親を決め、容姿を決めたキャラクターが、作者である自分の思惑のまま突き進んでいく。
自分自身ではなく、キャラクターではあるものの、そのすべてを決めて思うがままに動かせるという創作の世界の自由さに、ずぶずぶハマっていってしまった。
創作ズブズブ女である私は、小学3年生の時に宝塚歌劇の男役を知り、大学1年生の時に歌舞伎の女方を知った。宝塚の「男役」と歌舞伎の「女方」という、かなり浮世離れした存在に対して、私は異常なまでの愛着を持つようになった。もちろん、単純に綺麗だとか美しいとか、そういう理由もある。だが一番の理由は、「男役」と「女方」の存在自体が巧妙かつ徹底的に仕組まれた、究極の創作物だと感じているからである。その巧妙さと徹底さは、他のどんなに優れた創作物も敵わない、と思っている。宝塚の「男役」と、歌舞伎の「女方」は、現実には絶対に存在しない、いわば架空の男性と女性である。宝塚の「男役」を務めるのは、男性として生まれた人ではなく女性とした生まれた人であり、歌舞伎の「女方」を務めるのは、女性として生まれた人ではなく男性として生まれた人である。人間が自分で決められないもののひとつである「性別」というものから、「男役」と「女方」は創作していくのである。

「男役」や「女方」は、自分の生まれながらの性別という属性を超えて、もう一方の性別になりきってはその美しさを見事に体現し、時にはその美しさで実際の男性や女性たちをも凌駕するほどの魅力を持つ存在だ。
人間が生まれながらに持つ性別に縛られずに、もう一方の性別になりきってはその美しさを追求しているという、稀有な創作が持つ自由さに、私は虜になっている。
そして、生まれた時点で、望んでもいないのに勝手に決められていたもの(ここでは性別)に抗い、もう一方の性別を見事に演じ切っては独特の価値を見出しているというその事実に、私は希望を感じる。
創作という世界上ではあるけれど、人間は生まれた時点で望んでもいないのに勝手に決められていたものに抗い、超越していくことができるのだ、どこまでも自由に生きてはその独自の価値と美しさを追求することが出来るのだという希望。私が見る宝塚の「男役」と歌舞伎の「女方」のなかにはそれがある。
だからこそ、色々なニュースを見ていても、何とかして宝塚歌劇団と歌舞伎は存続して欲しいと思う。宝塚歌劇と歌舞伎は芸能界の中でも格段閉鎖的な世界であり、その特殊性と閉鎖性からか、色んな騒動が起こっている。しかし、だからと言って宝塚歌劇や歌舞伎の世界が日本から無くなるべきだ、とは私は決して思えない。なぜなら、宝塚の「男役」や歌舞伎の「女役」ほど、創作の世界においてどこまでも広がる自由と可能性を持ち、そして私が感じているような希望をもたらす存在は他に無いと思うからだ。もちろん、様々な騒動が起こってしまった以上、宝塚も歌舞伎も、今の状態を全く変えずに存続し続けていくことは不可能に近いだろう。宝塚歌劇は110年、歌舞伎は400年以上存続してきた世界である。演者やスタッフに大きな負担をかけ続けている、現代の感覚からはあまりにもかけ離れたしきたりや風習、ルールがあるのであれば、それは確実に改革していくべきだ。宝塚の「男役」と歌舞伎の「女方」という存在に希望を与えられては支えられてきた存在として、宝塚歌劇団と歌舞伎の行く末をずっと先まで見ていたいと私は思う。





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