見出し画像

シャニマスと写真 : 「明るい部屋」のフォーカスと実在性について

シャニマスって写真なんじゃないか。カードイラストの多くは明らかにカメラの存在を意識させるものだし、頻繁に登場する光学用語や、三峰さんのカメラ趣味なんかも示唆的です。shino-graphyからも、「光の記録」は大きなコンセプトのひとつだと言ってもいいと思います。

でもそれ以上に、具体的な体験としての写真との共通点があるような...そんな感覚がありつつも言語化しあぐねていたところに、「明るい部屋」が補助線になってくれたのでまとめてみます。

私がアイドルマスターに感じている面白さとは、(よく言われているように)キャラクターに対して抱くさまざまな形の存在感です。それは、モチーフ的な裏設定やアナロジー的な考察とは別に、私たちはどのようなときに(非実在の)彼女たちの存在を強く感じるのだろうか?という疑問から始まります。

架空のキャラクターが、現実にいてほしい。悲願だと思います。そこでシャニマスは「私たちはメディアを通して、実際の身体がなくてもその型枠によって『実質≒Virtualに』人間を認識している」という仮説を通した、アイドルの召喚をエンタメにしているのだと思います。

画像13

Dakota Hair, by Ryan McGinley

人々を撮った写真を見るとき、私たちは、それらの人々が実際にそこにいたのだと無意識のうちに考える。カメラの前、いつかどこかで、実在した状況で、実在した瞬間にいたのだと。カメラはレンズの向こうにある何かの輪郭をある程度正確に再現するものだと私たちは仮定している。そして時々、本当に好きな写真を見ている時など、手を伸ばせばそこ に写っている人々に触れられるように感じたり、それらの人々との会話を想像したりすることもある。 (まなざしのエクササイズ - p377)



解像度 / キャラクターの実在に関する2つの戦略

画像12

Girl by Yoshinori Okuyama

架空のキャラクターに現実味を与え、一人の人間として意識させる/するというのは、どのようなことなのでしょうか。

まず、シャニマスの感想などでよく用いられる「解像度」という言葉に対して、その描写の方法と感覚はふったつの方向性があるのではないかと考えてみます。それを便宜的に「ハイレゾ (High Resolution)な実在性」「ローレゾ(Low Resolution)な実在性」としてみます。(専門的な用語とは意味が違うかもしれません。)

「ハイレゾな実在性」というのは割と単純で、キャラクターにズームし情報を付加していくことで、解像度をあげていく、という手法です。「明るい部屋」でいえばはづきさんの過去の掘り下げがそれに当たります。本人に対して意味や情報が増えていくことで、人間性に複雑さや厚みを持たせる方法です。

対して「ローレゾな実在性」はモーメント(瞬間的な体験)として存在します。それは、キャラクターの「記号的な理解が曖昧になる瞬間」で、写真論では割とよく聞く話かと思いますが、重要なのはこれが「イメージの存在」を「私たちの世界の一部」として感じることと深く関係している、ということです。そして、この関係性の議論は「架空のアイドル」をどう認知するかにもスライド出来るのではないでしょうか。

そこでここからは、どういった場合にこの実在感を得ることができるのか?ということを

・ロラン・バルトが考察した、写真的な「細部」
・ノクチルの「スナップ的わからなさ」
・「明るい部屋」放クラの「ずらされたフォーカス」

の3例を通して考えてみたいと思います。


『明るい部屋』  /  「細部」が私たちとイメージを結びつける

画像12

Summer Still life By wolfgang tillmans

さて、まず、タイトルの元ネタである『明るい部屋』(二重括弧で区別します)は、フランスの哲学者ロラン・バルトによる写真批評です。テーマは二部構成で、超!ざっくりいうと

・写真って「撮る・撮られる、写真を眺める、という要素があるよね」
(写真の存在論=世界の中での写真の存在の仕方と性質)

・写真って「理由もなく写っちゃった細かい部分にめっちゃドキドキすることあるよね」
(私たちがイメージの存在を経験する方法)

の2つです。
これらをとおして、写真が「メッセージが曖昧な物体になりうる」ことや、「写っているものが、かつて、本当にそこにあったのだ、という感覚」を誘発するものとして考察し、それらを通した母への追悼が書かれています。「明るい部屋(シャニマス)」との具体的な関連は、本や概要など読みながら見つけて楽しむと良いと思いますので詳細は省きます。


なので、ここでは、本書の有名な概念である「ストゥディウム」と「プンクトゥム」を説明します。先に言ってしまうと、重要なのは「プンクトゥム」の方です。「理由もなく写っちゃった細かい部分にめっちゃドキドキすることあるよね」というのがこれに当たります。

バルトは、イメージを社会的な文脈と照らし合わせて説明できる状態を「ストゥディウム」、写真に写っている細部によって、眺めている自分に実在性が迫ってくる経験を「プンクトゥム」と呼んでいます。

時に(残念ながら非常に稀に)「細部」が私を魅了する。(.........)この細部とは何の理由もなく偶然そこに存在するものであり、創造的なロジックによって構成されたものではない。

例えば前者は、その写真について「貧しい子供たちが楽しそうに現代的な暴力の象徴を取り囲んでいる」という、考察とか理解をしている状態です。一方後者は、「この男の子の歯茎が不揃いである」などといった「予想外のディティール」の存在が重要であり、そういった写真の持つ「細部」が物語や記号を曖昧にし、鑑賞者個人に激しい感情を起こさせる経験をもたらします。バルトは、そういう二つの性質を併せ持つということが、写真体験の特異な点だと考察しています。

そして、ここが一番大事なのですが、「プンクトゥム」によって、「ストゥディウム」が、私たち鑑賞者と結びつくのです。記号的な存在の記号性が、細部によって曖昧になることで、私たちはそれを現実のものとして激しく体験するのです。

画像6

William Klein | Gun 2, New York City, New York (1955)

シャニマスのキャラ造形は、アンチ・記号であるとよく言われていますが、その演出における一つのチャレンジが、描かれているものから、「いかに物語や意味を消し去るかということ」だと思っています。アニメやテキストの世界では偶然は起こりえず、基本的に全ては意図されて配置されます。物語の進行上不必要な細部を描くというのは、デザインの段階で他者性が入り込む余地のない世界で、とても困難です。その中で、いかに「ストゥディウム」と「プンクトゥム」を同居させようとしているか。シャニマスの写真性というのは、そういうことなのではないかと思います。そして、その方法の一つが「稲妻のように存在感のある細部」なのではないでしょうか。

プンクトゥムは、刺し貫く稲妻のようでありながら、多かれ少なかれ、ある種の拡張的な力も潜在的に備えている。(.....)「細部」でありつづけながら、画面全体を満たしてしまうのだ。


3Dスキャンとしてのストレイライト、スナップ写真としてのノクチル

画像10

Big face, big buttons, New York , 1955 by William Klein

写真は、それが、ただそこにあったという事実を示します。特にスナップ写真は、中心やタイミング、フォーカスが対象物から若干ずれていることで、その一瞬の背後にある膨大な世界と時間を予感させるような特徴を持っています。ノクチルは、そういう意味でスナップ写真的なキャラクター造形だといえるでしょう。つまり(少々強引な比較をすれば)、ストレイライトが、キャラクターを複数の角度から撮影することで解像度と立体感、人間性を獲得していくのに対して、ノクチルの実在性は、今見ているのは彼女たちの世界の「一部」であるいう感覚から得られる「わからなさ」からきているということです。ゲーム内のプロデュース方針も「そのままのものをそのままのイメージ(=アイドル)」として出したらどうなるかという実験をしています。なのでノクチルのメンバーは、物語上意味のないことをしそうだ、という予感があって、それってすごいですよね。

画像1
画像2

スナップ写真の巨匠ソール・ライターによる、モデルが撮影の合間に気を抜いた瞬間の写真「Untitled」(上)と、樋口円香の「UNTITLED」(下)

イラストデザイン上では、カメラの存在を示すことで同様の操作が行われていましたが、テキスト上でそれをやるのは冒険だと思います。しかもポップカルチャーとして。アイドルマスターはゲームの性質上、キャラクター造形が物語を進行するためのロールから解放されやすく、また、巨大な二次創作群によって「イメージ」を獲得していく、という特殊な土壌があると思いますが、それが極限化するとこれが「アリ」になるんだ...と驚きます。

スクリーンショット 2021-01-17 @201052

ストレイライトは人間的な多面性があり、存在として自律した強度を持っていて、それは彼女たちを語る上で、ほとんどキャラクターの解釈に齟齬が生じないほどだと思っています。しかし、ノクチルは確信犯的に、断片的で説明不足です。それゆえ、わからなさを補完するプレイヤー(≒プロデューサー?)の記憶によって、初めて深い奥行き・強い実在性を得ることができるユニットであり、その現れ方は、私たちそれぞれで異なります。私たちそれぞれの持っている記憶と経験が異なるからです。実際、二次創作で見る彼女たちは、自分の解釈と少しズレている....というか、そういう見方もあるのか!という発見が、比較的多いと私は思っています。つまり、私たちが彼女たちを見ることが、彼女たちの実在性に深く関係している、そういうユニットなのではないでしょうか。彼女たちへの感情の半分は、私たちの記憶から来ている。

画像3

こっち見ろー

キャラクター造形というのものは、普通隅々まで「意味」で組み立てられています。それゆえ、オタクの考察というのは基本的に製作者の意図した表象の答え合わせに終始しがちです。それは創作を読む上でまず第一に必要な態度ですが、個人的にはそういった「意図」の読み取りを越えた「体験」を語りたいし、そういった部分にフォーカスした作品も見たい...!そう思っています。それは、文脈や社会を越えて、「私」とキャラクターの間で、偶然発見されるようなものなのかもしれません。そういった感覚に、物語や映画の理論に加えて、写真をどう作るか・見るかという視点が、何かヒントになるのではないかという予感があります。


「明るい部屋」 のアウトフォーカス / キャラクター・部屋・私たちの結合

画像8

Field 21 by Uta Barth

ここでやっと「明るい部屋(シャニマス)」に戻ります。このシナリオは群像劇であり、さまざまな主題がありますが、メインテーマは間違いなくはづきさん中心の物語だと思います。しかし、ここで言及したいのは、おそらく裏テーマ、カードイラストに描かれた放クラのラストシーンであり、私はこのシーンで彼女たちに強い実在性を感じました。なぜでしょうか。

前提として、描写するということは、意味や記号の付加を避けることができませんが、今回は群像劇であり、放クラの面々は描写はされるけれど直接新しい情報を付加されるわけではなく、どちらかといえば物語としては、あまりフォーカスされていなかったと思います。むしろ後半、「部屋」やはづきさんのストーリーを通じた、さまざまな「放クラに直接関係しない時空間」の描写が進んでいくため、私たちはこの物語を「はづき・社長・部屋にフォーカスを合わせ、そのバックグラウンドにアイドルたちが写っている」シナリオとして理解します。このままでも、名脇役が主役のサイドストーリー(シャニマス全体で見るとメインストーリー?)として完成されていて、作品世界についてより深く理解することができるようになりました。

しかし最後に、この部屋の時空間にアイドルたちがもう一度放り込まれるのです。

何が起こっているのかというと、そもそも物語では彼女たちについて直接描写すればするほど、彼女たちは記号的な存在になってしまうというジレンマを抱えていました。そこで、記号を付加するフォーカスをずらし、はづきさんの物語を通して「部屋」の記号を高解像度で付加した上で、最後の最後にアイドルと結合することで、彼女たちを描かずに描く、ということが成立しているのです。

彼女たちは一つの空間にかつて存在した、さまざまな物や人物、出来事の一部として認識され、また彼女たちもそれを認識します。それは、はづきの父だけではなく、作中には登場しなかった膨大で曖昧な出来事の予感です。そして、描かれなかったさまざまな出来事は、私たちが個人的に持っている「部屋と出来事」のイメージによって過剰に補完されます。彼女たちが、急激にその「意味過剰」の中に位置することで解像度が低くなり、キャラクターとして持っていたハイレゾな記号性=「彼女たちに対する理解」が、ぐらりと揺らいだ瞬間があった。それは、テキストながら写真のような、実在性のスパークだったのです。

スクリーンショット 2020-12-22 @114524
画像5

そして、夏葉さん多分ロラン・バルトも読んでるんだろうなと思ったし、果穂はあんな軸がいっぱい(縦軸=時間、横軸=空間の比喩とか)ある話をよく一発で理解できたね...えらいね...賢いね...と思いました。



最後に

ロラン・バルトによると、「ストゥディウム」は「好き/嫌い」の次元に、「プンクトゥム」は「愛」の次元に属するそうです。

画像7

Love (Hands in Air) (1989) by Wolfgang Tillmans

社会は「写真」に分別を与え、写真を眺める人に向かってたえず炸裂しようとする「写真」の狂気をしずめようとつとめる。その目的のために、社会は二つの方法を用いる。
…以上が「写真」の二つの道である。「写真」が写して見せるものを完璧な錯覚として文化コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。
「明るい部屋」(pp.142-146)

隠された本質は、寄り添い、深く知ろうとし、真摯に向き合えば汲み取れるのかもしれないし、汲み取れないのかもしれません。



参考



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?