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自分を責めるのを止めること「罪悪感の克服法」『いやな気分よ、さようなら』第八章

 ようやく半分まできました。八章です。ここまででいわゆる理論的な話は終わりになります。

 今回のポイントはもう書いちゃいます。簡単です。

無駄な罪悪感をもって自分を責めるのを止めよう

ということです。

 うつ病と言えば罪悪感と言ってもいいくらい、うつを患ったことがある方にはおなじみの感情なのではないでしょうか。僕もそうでした。会社に行ってた頃はずっとそうで、休日でも「僕は皆に迷惑を掛けている」と考えてベッドから動く事すらできませんでした。

 結果としては死んだら許してもらえるとおもって自殺を図るのですが、今僕がこれを書いているということは・・・もうおわかりですね?

 まったくナンセンスな考え方ですが、当時はそれが唯一の真実であり、僕が苦しみから逃れる最後の手段だと思って疑うことはありませんでした。罪悪感てそういうものなんでしょう。これからそのことにも詳しく触れていくことになります。

 ちなみにいま僕に罪悪感はほとんどありません。人に何を言っても、何を言われてもこれっぽっちの罪悪感も感じなくなりました。たとえ少し感じてもすぐになくなるようにトレーニングしたんです。この本・・・もそうなのですが、主にはこの本でw

 完全に中島義道に毒されていた(いい意味)時期があったのですが、これはすごくいい本です。本の紹介で別の本を紹介するのってどうかと思いますが、まぁいいでしょう。『カイン』は自分を認める本です。それは今までの弱い「よい子」であった自分を殺し、強くなる本とでも言いましょうか。ですが僕が心を動かされたのは、この本のように生きてきた中島自身の心うごきであり、そこを追っていく過程はまるで小説を読んでいるかのようでした。

 おっと、話がそれましたね。それでは本題に入っていきましょう。

罪悪感の定義

認知療法からのアプローチすると罪悪感は以下のように定義できます。


行動が自分で決めた道徳基準から外れ、フェアでなくなったために、やるべきではないことをやってしまった。(もしくはしなければならないことをやりそこなってしまった。)

この「悪い行い」は、私が悪い人間(もしくは悪いことに傾きやすい人間、不道徳な人格、または腐りはてたやつ…等々)であることを意味している。

 「自分が悪いんだ」という概念が罪悪感の中心にあるのです。

 これはいわゆる「良心の呵責」や後悔とは違います。良心の呵責や後悔はその「行動」を批判しますが、罪悪感は「自己」を批判の標的にするものです。

認知の歪みから

 罪悪感に加えて恥・不安・憂うつも感じていたら、おそらく次のどれかを考えているはずです。

「悪い行い」のために私は劣っていて価値がない→憂うつに
もし他人に私のしたことが知れたら軽蔑されるだろう→恥を感じる
報いや罰を受けるかもしれない→不安に

 このような考えによって作られた感情が有益か、それとも有害かを評価するには三章で学んだ10の認知の歪みに当てはまるかどうかみてみるといいでしょう。

罪悪感になりやすい歪みたち

 ↑のような認知の歪みに当てはまるなら、それらは間違いなく無用のもので現実的なものではありえません。

 罪悪感を感じたとき、最初に考えられる歪みは、「なにか誤ったことをしてしまった」という前提にあります。失敗したという気持ちを現実離れして大げさにとらえ、自分を痛めつけることは不必要なことだということです。
 第二の歪みは、自分がしたことに対して、自分が悪いとかくずだとかっていうレッテル貼りをしてしまう行為です。これは、無駄に自分を責めることにエネルギーを使う無意味な行為なのは、賢明な読者の方にはもうおわかりでしょう。
このほかによく罪悪感を起こさせる歪みに「個人化」があります。自分がけん引でないことに責任を感じる歪みです。

 認知療法と詭弁
 認知療法は自分の考えが自分の気分を作るというものです。その考え方にに、おや?と疑問を抱いた方もいるのではないですか?自分の考えが自分の気分をつくるなら、自分が何をしても誰も傷つけないことになります。なぜなら、自分が何をしようとその人が動揺したのはその人たちの考えのせいなのですから。それは彼らの問題でしょうと。

 もちろん違いますよね。

 人の感情は歪んだ考えのために動揺している場合には、その苦しみはその人に責任があります。しかし、その人個人の痛みのためにあなたが自分を責めるなら、それは個人化の誤りです。それとは対照的に、ある人が苦しんでいるのが、正当かつ歪んでいない考えによってなら、その苦悩は本物であり、実際には外に原因があるのです。

 あなたが、誰かを殴ったら、殴られた人の痛みの責任はあなたにあり、あなたが人を傷つけたという事実は変わりません。当たり前のことですが、あなたの良心の呵責とその人の不快感は実際のもので正当なものなのです。

さて、歪みの話に戻りましょう。ほかにもこのような歪みがあります。

不合理な「すべき思考」は罪悪感へ行きつく前に必ず取る道です。この考え方はあなたが完璧で全知全能であるべきだと暗にほのめかしている。

 あなたはなんでも知っていて何でもできますか?そんなことないですよね。では罪悪感をつくる三つのすべき思考を見てみましょう。

①私は常に幸せであるべきだという思考
②全知という前提に基づいた「すべき思考」
②全能であることに基づいた「すべき思考」
この三つの思考が、きちんとした道徳基準から外れた不適当な罪悪感をつくっています。

 では、その程度や健康的な自責や後悔の念から区別する基準はどうやって設けたらいいでしょうか。以下のような基準を設けてみましょう。

否定的な考えの「強さ」、「期間」、「結果」です。

どのくらい強い考えか、どのくらいの期間か、そしてどんな結果を生んだのか。おそらくどれもが非合理でナンセンスな思い込みによって作られたとわかるでしょう。

罪悪感の悪循環

罪悪感がどんなに不健全で歪んでいても、いったん罪悪感を感じ始めるとそれが正当であるような錯覚にとらわれることがあります。

①自分は罪悪感を感じ、非難に値する。これは私が悪かったということだ。
②私は悪いのだから、苦しみを受けるのは当たり前だ。

この認知から感情へのつながりが、考えと感情の双方をロックしてしまうのです。これが罪悪感の悪循環なのです。つまり

「私は悪いと感じている。それゆえに私は悪いに違いない。」と考える。

 これはおかしいですね。自己嫌悪をしていることとあなたが悪いことをしているのは別の問題です。罪悪感は単にあなたが悪いことをしたとあなたが信じていることの反映にすぎません。

 それでもこれを強化するのが、自罰的考えです。「こんな自分は罰せられて当然だ」という考え方ですね。罰せられさえすればまた動くことができるという考えをもっているのです。これは罪悪感を感じやすい人は皆一様に持っている考え方なのだそうです。

本当に罰せられると動けますか?
真実はその反対でしょう。罪悪感はただエネルギーを消費して自分が怠惰で能力に欠けるという考えを強化しただけです。これが自分は悪人で自己コントロールができない人間という観念を作り上げているのです。

罪悪感の無責任さ

 実際に何か悪いことをしてしまったらあなたは苦しむべきなのでしょうか。どれくらい?それが終わったら罪悪感はなくなるのですか?そもそも罪悪感で自分を苦しめることの意味はなんですか?もし悪いことをしても罪悪感は過ちを取り返すものではないし、罪悪感は何の意味もありません。

大事なことは、失敗したときに求められるものは、それを認知して、学習し、変化させる行動とその過程です。

なぜなら、誤りがあったと認識した時、それを修正する戦術を立てるときこそ自己改革をしやすいからです。罪悪感はこれを邪魔するのです。

 これまでに述べた基準を用いて、ここで自分の気持ちが正常で健康的な自責感か、自分を壊していく歪んだ罪悪感のどちらなのかを↓をみながら確認してみましょう。


故意に何か「悪い」「不公平な」ことをしたか。あるいは不必要に人を傷つけただろうか。もしくは不合理にも自分が完全で全知全能であることを求めてはいないか。

この行為のために自分にどうしようもない人間とレッテル貼りしていないだろうか。私の考え方に拡大解釈や一般化のしすぎやほかの歪んだ認知が入ってないだろうか。

何かまずいことをしたときにもそれを共感的に意識することにより、現実に即した後悔や良心の呵責に転換できているか。

自分の犯した誤りから学ぶことより、自己改革するための戦術を立てているのか、または非生産的かつ自罰的な大度で愚にもつかないことをグズグズ考えているだけなのだろうか。

さて、ではどうするのか。おなじみ認知療法のワークです。罪悪感を取り去り、自尊心を高めるための方法をもう一度まとめます。

1歪んだ考えの日常記録

もうおなじみのこの方法。四章で自信のなさを克服するための方法として紹介しました。

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このように、罪悪感の原因を左から空欄を埋めていくことで割り出します。もっと客観的にはどう考えるべきかを書き留めるのです。

2「すべき思考」を除く技術

 これは「すべき」という状況を減らす方法です。

まず「いったい誰がやらなければならないと言ったのか。どこにそんなことが書いてある。」と自問すること。

 ポイントは必要以上に自己批判していることに自身で気がつくこと。自己のルールを決めるのはあなただから、いったんそのルールが使えないと気が付けば改めるか、除くかできるはず。

そのルールがどのくらい役立つのか知りたいなら「そのルールを持つことの長所と短所は何で」、「そう思うことのメリットは何か。こう信じることにどんな価値があるのだろう」と自問してみる。
→ダブルカラム法にしてもよい

 ダブルカラムの技法をつかったら「~すべき」を「こうだったらいい」「こんな風にできればいい」という表現にかえてみること。もしすべきとおもっていたことができなくても。それができればよかったが、できなくても世界が終わるわけじゃないと考えてみましょう。


自己コントロールができないという思い込みと悪習慣
 ダイエット中にもかかわらずアイスを食べてしまった、なんてことはよくあります。アイスを食べるべきではなかったと自分を責め罪悪感にかられるわけです。ちなみに僕は今チョコモナカジャンボをかじっていますし罪悪感も全く感じていませんが、このように過食、過度の飲酒、喫煙などの悪習慣を止めようと思うと、そこには「自己をコントロールできない」という思い込みがあります。その背景には「すべき思考」が関係しているのです。

 では「~すべき思考」が現実にそぐわないものだとしたら?

悪習慣を「やるべきではなかった」と考えるときには
①やるべきではなかったことは事実
②この考えは役に立つ
という前提がある。

だけど本当は逆なのです。

やってしまったことは、まさにやらなければならなかったことで、すべきではなかったと考えることこそ有害なのです。

つまりアイスクリームを食べるべきではないと思ったあなたがアイスを食べたのは、まさに食べなければならなかったから食べたのです。

 意味がわかりませんか?では説明しましょう。

 ダイエット中にアイスを食べてしまって罪悪感にかられている人の例で説明します。この人はイライラするとアイスを食べてしまうという悪習慣を持っています。

見逃してはならないのは。この人は二つの問題を一つにしているということです。

一つ目:ダイエットを破ったこと。
二つ目:済んだことで自分をいじめることです。

 この二つ目のことについて頭を悩ます必要は一切ないのです。

 変えるべきは、そのイライラした時にアイスを食べるという習慣の方なのです。逆に言えば、この人はイライラした時にアイスを食べるという習慣を守った。その習慣で行けばまさにこの人の行為はいたって普通のことであるというわけです。

これを「すべき」とかあれを「すべきではない」とか言うのはやめましょう。罰よりもむしろ報酬を通して自分を変えていくのです。


バーンズ先生の減量
 バーンズはこの本で自身のダイエット体験について書いています。バーンズはキャンディーとドーナツが大好きだとか。ただ、夜には、アイスクリームを食べたくなるのを一番我慢しにくいことに気が付きました。

 そこでその衝動を我慢できたときには自分に大きな出来立てのドーナツを朝に、そして夜にはキャンディを1個ご褒美として食べてよいことにしました。そして、どれだけそれがおいしいかに意識を集中させることにしました。これによりアイスのことを忘れたのです。

 それでも時々誘惑に負けてアイスを食べてしまうことがありましたが、チャレンジしたご褒美にキャンディーとドーナツををもらってもよいとのルールも作りました。この方法で50ポンド以上減量したそうです。50ポンドって・・・今でいうと12cmくらいのことですかね?

天邪鬼
「~するべきではない」と考えるとなぜかしたくなる気持ちってありますよね?それに似てるような気がします。アイスクリームを食べてはいけないとおもうと余計に食べたくなるんです。ではどうすればいいか。

食べればいいんです。罪悪感も不安も食べ物で埋めればよいのです。「するべきではない」と強く思っていることほど、してみるのです。「するべき」などと考える必要はない。何をするのもあなたの自由です。

自己コントロール不能に着目する
「自己コントロールができない」という自分自身を信用していないことに照準を合わせる方法もあります。「すべき思考」がないと犯罪に走るかもしれませんか?では考えてみてください自分が余裕をもって生きていたときすべき思考でがんじがらめにされていましたか?ちがいます。あなたは自分自身をコントロールできる。コントロールができないのはむしろ「すべき思考」のせいなのです。あなたはきちんと自分をコントロールできるのです。

逆説法
1日に3回2分間時間を決めて。「すべき思考」と「自己批判」を大声で朗読してみましょう。いかにその考えてることが客観的見てナンセンスなことか気が付くはずです。

ポイント
「すべき思考」と戦うには「どうして私がすべきなのか」を問うことです。そうすることで間違った理論を浮き彫りにし、自ら編み出した、これからどうするかという対策に挑んでいくことができるのです。これをすることですべき思考を低めることができるわけです。

 自己をコントロールしたいと思うならすべき思考と罪悪感を感じることをやめ、これからどうするのかにエネルギーを使った方が生産性が高まるはずです。

3自分の意志を通す方法を学ぶ

罪悪感を感じやすいことにはもう一つ大きな欠点があります。ほかの人がこの罪悪感をつかってあなたを巧みに操ることができるということです。これは、思い当たることが多い人もいるのではないですか。 

 本では弟の頼みを断るロールプレイをしたマーガレットの例が出てきますが、それを載せるまでもないでしょう。六章で学んだ批判を言い返す方法で、自分の意志(NOという意思)をはっきり伝えればいいのです。

 ここからは僕の経験を交えて話します。これは本に載っていない僕の意見です。それなので結構過激なところもありますので、読みたくない方は飛ばしてください。

 この罪悪感を利用する人は、その利用の仕方に巧拙はあれど、世の中でいう人のいい人ならだれでもこの罠にはまるとおもいます。

 僕自身の経験ですが、この罪悪感につけこむのが恐ろしく上手な人がいました。多くそういう人は、自分に期待をしている、その期待を裏切らないでほしいという文脈を使って僕に罪悪感を植え付けるのですが、当時僕はそれに見事にやられてしまいました。

 学校の先生でもいますよね。罪悪感を植え付けて生徒をコントロールしようとする先生。「勉強しないと誰が困るのですか。先生は困りません。」そういって勉強しないことは悪だという罪悪感につけこんだり、「出て言ってもいいぞ!」といって、教室を出ていくのは悪いことだという罪悪感につけこむ。実際に出ていくと、連れ戻されるのにです。

 勉強なんかしなくたって別に困りません。必要なことは勉強させられるのではなく自分で学ぶからです。学ぶことの意味は困らないようにするために存在しているのではないからです。出て行けといわれて出ていくことに何か悪いことがあるとは全く思いません。

 この罪悪感につけこむ人間は基本クソ野郎だと思っているのでまともに相手をしないことにしています。そうやっているうちにその方法で動かせないことを悟り、離れていくか、別の方法でアプローチしてくるのです。

 基本こういう人は人を使うのがへたくそです。僕の職場にもいます。僕は基本的にまじめに仕事をしないので(さぼっているわけではありません、やる気がないだけですw)、もっとまじめに仕事をしろと初期は何度も言われましたが、その言われ方はまさに罪悪感につけこむもので、「そんなことをして自分が困ることになるよ!」とか「じゃぁずっとそういう態度でいれば!?」などというものでした。いわれるたびに僕は「はい、そうします。」「罪悪感につけこむのが下手すぎますよ。そんなこと言われても私はみじんも悪いとは思わない」と言っていました。時には「気に入らないならクビにすればいい」って言ってました。もっと仕事をまじめにやることの合理的なメリットをいってくれればなぁと思いますが、そんなものはないので誰も言いません。最近は僕がやっている仕事に口を出してくる人もいないので快適に過ごせています。出してくるとしても「お願いベース」の出し方です。まぁ、これは極端な例ですが。僕はあれ以来罪悪感を引きずらなくなりました。

ここから本書は、愚痴を言う人や嘆く人の話を聞くのに疲れてしまった人の対応についての話になるのですが、これに関しては、やはり6章の共感と同調で何とかなる気がするので、めんどくs…あえて載せません。載せてほしい場合はコメントで言ってください。

責任の釣り合いを保つ

 罪悪感を起こす一般的な歪みの一つに「個人化」があります。すべては自分の責任だと感じてしまう認知の誤りです。罪悪感は、誰かが実際に痛みや不快感に苦しんでいて、それがあなたとの人間関係が原因のような場合は克服するのが一層難しくなります。こういう場合現実的に考えて責任が持てそうな範囲を明らかにしておくことが役に立ちます。どこまでがあなたの責任でどこからが他人の責任でしょうか。つまり責任の再配分をするわけです。


 さて、八章でした。理論ばっかりが続いていましたが、ついに九章からは現実的な問題に対して焦点が当たってきます。次回「哀しみはうつ病ではない」にご期待ください。


お知らせ


サークルのプランが審査を通過したので、サークルに参加することができました。プランも最低額にしてあります。気軽に試してみる程度、興味本位でも全然かまいません。何か話したいという人もokです。気が向いたら参加してみてください。




チョコ棒を買うのに使わせてもらいます('ω')