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専門化は脆さを高める

前回、安定したシステムに必要な多様性について書いたところ、想像を超える反響をいただけた。そこで今回は、個人の職業のレベルに視点を変えて、「専門化は脆さを高める」ということについて書いてみた。

崇拝される専門性

現代は、専門性が尊敬される時代だ。欧米ではPh.Dを持っていると、飛行機やホテルをはじめ、いろいろな待遇が変わるらしい。

専門性のある職業として古くから崇められてきたのは、医者と弁護士だ。ときに親は、子どもがどちらかになることを夢見、その素晴らしさを子どもに刷り込む。子どもはどちらかになることを自らの選択と信じ、幼い頃からお勉強に励む。

この理由のひとつに、医者か弁護士になれば高い給料を手に入れ続けることができて、生涯安定だという考えがある。一部の社会では、医者や弁護士からソフトウェアエンジニアに向きが変わってきているかもしれないが、たいていの理由は同じだろう。でも、本当に専門化することは安定につながるのだろうか?

専門化した生物の果て

生物学では、ある特定の環境に専門化することを「特殊化」と呼ぶ。

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これはユミハシハワイミツスイという鳥で、ある花の蜜を効率よく吸うことに特殊化し、嘴をアーチ状にまげて進化した。しかし、環境が変わり花が減ると、滅びてしまった。

実は恐竜も特殊化の犠牲者として捉えることができる。恐竜は2億年ほど前に大気の酸素濃度が上がったことで巨大化したとされている。しかし、隕石の衝突で強く冷え込んだ地球に適応できず滅びたと考えられている。

もうひとつ。学生の頃に、東大情報学環の発足に尽力された原島博教授のある講義に参加したことがあった。その中で原島先生は、「ネアンデルタール人が絶滅したのは寒冷な気候に身体を特殊化したため」という学説を紹介してくれた。反対に、衣服という道具によって適応を外部化したクロマニョン人は生き延びたというわけだ(ネアンデルタール人については最近も定説を覆す研究結果が発表されていて、特段有力な仮説があるわけではない)。

こうした生物の絶滅例に帰納法をつかうと、ある特定の環境に特殊化した個体は絶滅しやすくなるという理論が取り出せる。「絶滅しやすい」ということは「脆い」ということだ。金融でいうところの「ボラティリティが高い」という状態も近いかもしれない。

専門化は脆さを高める

生物学の理論はわかった。でもいま問題にしたいのは、何世代もかけた専門化ではなくて、1世代での職業としての専門化だ。1世代で身体が変わるわけないのだから、先の理論は当てはまらないと考えるのがふつうだろう。でも、それは間違いなんだと言いたい。

理由は、生物学や経済学で明らかになっているサンクコストの誤謬だ。サンクコストの誤謬とは、自分がいま行っている投資がサンクコストを増やすだけだとわかっていても、その投資を止められないことだ。ここでいう投資とは、専門化するために費やした学習教材の費用や時間、それから専門化のために整えた身の回りの環境(道具など)なんかのことだ。人間は一生のうちに身体を変えることはまずないけれど、サンクコストの誤謬のせいで、特殊化すれば環境の変化に合わせて変化するのが難しくなってしまう。

世の中では、専門化は安定性を増すと考えられているけれど実はちがう。専門化した者は、環境が変化しない間に限り有利(繁殖とか稼ぐこととか)なだけであって、環境が変化したときには適応することが難しく脆いのだ(絶滅とか破産とか)。例のOxfordの予測がどこまで正確かには興味はないのだけど、テクノロジーの影響が大きい21世紀の職業環境は人間にとって反直感的に変化する。1つの専門化に安住させてくれるようなスピード感ではないことは確かだと思う。

厄介なのは、資本主義経済では希少性が価値となることだ。希少性を獲得するには、どこかの領域に特殊化しなければならない。けれど、それでは環境の変化に脆くなってしまう。いったいどうしたらいいのだろう?

意思による進化

生物は、長い時間をかけ自然選択という非情な流れで環境に適応するように進化する。形態が大きく変わるまでには何世代もかかる。それから、生物の進化には目的がない。これは進化の誤解の1つだ。高い木になっている実を食べるために首を長く進化できるわけではない。意思によって進化することはできない。

ところが、人間は意思によって進化できる。もちろん、この進化は比喩であって、正確に言葉を用いるなら「自己変革」とでもなるのだろう。とにかく、身体を特殊化し環境変化に為す術のない生物とはちがい、人間は意思によって自らを変えることができる。つまり、環境が変化したらそれに合わせてまた新しいことを意思によって専門化することで、特殊化による脆さを渡ってゆける。

鋭い方はお気づきのとおり、これは今までの話と矛盾している。サンクコストの誤謬で変われないといっておきながら、今度は意思で変われると言っていると。これはもっともだ。大事なのは、変われる可能性があるかないかだ。

身体を極端に変化させた生物は、環境が不向きな方に大きく変わったときに為す術がない。つまり変化の可能性がない。人間はサンクコストの誤謬に苦しめられはするが、それは絶対的なものではなく、意思が打ち勝つこともあるにはある。変化できる可能性はあるのだ。

整理しよう。専門化(特殊化)は、脆さを高める。それは個人の場合、サンクコストの誤謬によるがこれは絶対的ではなく、意思が打ち勝つこともある。

ではどうしたら、サンクコストの誤謬という強力な鎖から意思で自由になれるのだろうか。

構造はつながる

鍵は「専門を変えるというのは捨てることではない」つまり「決して無駄にはならない」ということを理解することだと思う。

極端な話、どんなモノゴトも抽象化すれば同じことになる。例えば、リンゴと月。どちらも抽象化すれば「球体」だ。でも、もっと抽象化できる。どちらも、周りのモノゴトとの関係の中で捉えれば「要素」になる。ここまで抽象化すると、要素の関係性つまり構造は、関係なくみえるモノゴトにも当てはまることを発見したりするようになる。前に書いた多様性に関する話は正にこの例だ。

ところで、これを仕事にしている人がいる。詩人だ。詩集をひらけば、さまざまな比喩に出会うことができる。比喩というのは、一見関係がないように思える2つのモノゴトに、共通する構造を発見しているからこそできる技だ。これは創造的な行為だ。Steve Jobsの点と点をつなぐという話の本質もこのことではないかと思う。

だから、なにかを専門化するときに構造のレベルで理解できるようにしておけば、新たなモノゴトを専門化するとき、イノベーションの母なるブルーオーシャンを見つける大きな助けになってくれる。これを信じることができれば、きっとサンクコストの誤謬から思い切って自由になることができるんじゃないか。少なくとも筆者はそう信じて生きている。

終わりに

専門化は脆さを高める。それは個人の場合、サンクコストの誤謬によるがそれは絶対的ではない。専門化で得た知恵を抽象化し、構造を発見することで、環境変化に対する新たな専門の世界でブルーオーシャンを見出すことができ、価値を高められる。

でも、これは唯一の答えではない。少なくとも1つ別の考え方がある。それは「好きなことを愚直に専門化する」という生き方だ。この生き方は格好いい。魅力的だ。この生き方で激しい時代の荒波を乗りこなす人々は実際にいる。きっとこれは、好きなことをやっているうちに、ふつうは結びつけられないようなモノゴトと組み合わせ、そのブルーオーシャンを創造できるからではないかと思う。けど、これについては、また別に書くことにしよう。

これ頂けたときはいつもiMacの前に座ったまま心の中でパーリーピーポーの方々みたいに踊って喜んでます。基本的に書籍の購入費に充てさせて頂きます。