クナーファの夜〜生と他者へ
あなたはどう生きているだろうか。最近嬉しかったことはなんだろうか。最近悲しかったことはなんだろうか。
早起きをしてパンを焼いたり、待ち合わせの30分前に着いたり、好きな人と散歩をしたり、分厚い本に悩んだり、悪口を言い合ったり、ゆっくり珈琲を飲んで1時間過ごしたり、たまに旅をしたり、路地に座ったり、傷付いたり傷付けてしまったり、日が短くなったとため息をついたり、笑ったり、夜更かししようとして朝日の手前で眠ったり、ビールを10本飲んだり、夜にクナーファ(アラブのおかし)を食べたり。そんな感じで、いや、私の想像力が及ばぬ彼方で、各々生きているのだろう。私は思う。命というよりは、そんな生が肯定されねばならないのではないかと。
これは生と他者、他者という外側を肯定するためのテクストである。そしてこれは、虐殺への私の抵抗言説でもある。
1
・心を動かすことの問題
まずは問題提起から始める。
ある人や人々が困難な状況にあって、その人や人々を救うために他者に助けや支援、または何かしらのアクションを求めるとする。
では、他者にそれらをしてもらうにはどうしたらいいのだろうか。同情を含め、いかに他者の心を動かすかということになるのか。
心を動かすことは、もっとも一般的な方法で、緊急性が高い場合は特に必要のかもしれない。多くの人の心を動かせば多くの命が救われる。当たり前だが、このことは否定できない。絶対に否定できない。
しかし、心を動かすという方法には支配の危険がある。本来肯定すべき生を否定してしまう。そして、他者から私たちを遠ざけてしまう。そういった問題があると私は考える。
・支配と作用
心を動かしたいと思うことはもちろんいい。しかし、心を動かそうとすることには支配性がある。それは人をモノとして扱うことである。どういうことか。
「こうすれば人を感動させる」という方法があったとしよう。その方法をもって感動させることは、人をモノとして扱うことだ。
そんなことはないが、もしも映画の目的が人に涙を流させたり、感動させたりすることだったとして、その目的の為に人を感動させる方法を用いるなら、そのとき映画はもはや映画というよりも、人に涙を流させたり、感動させるための装置となってしまうだろう。私は「映画とはなにか?」という問いに答えられないが、少なくとも映画はそんな装置ではないはずだ。
このようにして人の心を動かすことは、作用的であると考える。
作用とは、夏の太陽が私の肌を焼くのと同じこと。薬が私の病を治すのと同じことだ。作用において、人の主体性は関わりを持たない。人は完全に受動的な立場に置かれる。もちろん薬が効きやすい効きにくいなど、作用にも個人差、個別性はあるだろう。しかし、薬の理想とするところは、万人に対して効くこと、つまり万人に対して作用があることではないだろうか。
人の心を動かそうとするなら、人の情動に作用を及ぼせばいい。しかし、それは人の心をモノとして扱うことになる。
人の情動に作用を及ぼし心を動かすこと、極端言えばそれは、意のままに人を悲しませたり、感動させたり、あるいは怒らせたりすることが出来るということである。これが支配に繋がることは言うまでもない。私は作用に、情動に、誰かの目的に飲み込まれ、従属させられてしまう。
・尋問と否定
今ではあまり見なくなったが一時期youtubeで、戦争や紛争の被害者への支援を呼びかける広告をよく見た。もちろんこういった広告は正しい。
しかし一方で僕は尋問性があるとも思う。そういう広告を見れば、多くの人は良心を痛め、後ろめたさを感じるのではないか。これは先に述べた情動に対する作用であろう。
仮に一つ支援したとしても、そういった惨状、助けが必要なことはたくさんある。次の支援、また次の支援と求め続けられ、そして誰もが全てに応答することは出来ないだろう。そうするといずれ反省させられることになる。いずれ良心を痛めることになる。行きつくところは罪の意識であり、自分が楽しく生きていること、自分の生への否定ではないだろうか。
このことは私にとても嫌な問いを与えた。それは「命のためなら何を犠牲にしてもいいのか?」という問いだ。
例えばある災害にあった人々を助ける為に、別の災害の写真を使って支援金を集めたとする。確かにその支援金で助かる命がある。しかし、このことに問題がないという人は少ないだろう。
誰かを助けるために尋問をする。確かにそれで助かる命もある。1人でも命が助かるならそれでいいだろう。何も間違えていない。しかし、このことにも問題がないわけではない。
本来肯定しなければいけないのは、このテクストの冒頭で述べたような生ではないだろうか。これは本来肯定されるべきが生が、一方で否定されている自体にもなっている。いや、緊急性が高い場合は特に、誰かの生の為に誰かの生をある程度犠牲にするのは必要なのかもしれない。しかし、そうだとしても問題提起として考えることは必要なのではないか。考えながら支援することは可能だろう。
もう一つ、脅迫という言葉がある。脅迫性のある言説がある。例えば、今ここで声をあげなければいずれ私たちも戦争に巻き込まれる等。
これももちろん否定されることではない。それが事実なこともある。しかしこういう脅迫的なのも、問題がないわけではないはずだ。
恐怖という情動を煽るような、脅迫的なことに違和感を感じたことがある人も多いはずだ。これをしなければシワが増えますといった美容商品の広告。特定の集団を悪と決めつけて、その集団を排除しなければ私たちの暮らしが危ないといった政治宣伝。
それが誰かの命や生を守るためならば、脅迫的な言説も必要なのか。命が助かるなら、やはり否定はできない。しかし、本当にいいのだろうか。
・大きな出来事と内側に閉じ込めること
心を動かすことは私を内に引きこもらせる。私から外側を奪い、私を他者から遠ざける。
人を助けるためには人の心を動かすことが必要というのは、人の心を動かすような事象にある人が助けられるべき人ということになる。残酷なことである。助けられるべき人とそうでない人の選別が行われているということだ。もちろんここに悪意はない。
人を助けるために、より多くの人の関心を集め、そして心を動かす。それが叶わなかった人は救われる対象からこぼれ落ちてしまう。しかし、当たり前だが、関心の外にも救われるべき人がいる。パレスチナの問題は、他の大きな出来事の裏でずっと進行していた。また、同情されにくいホームレスの人だって(もちろんホームレスの人の全てがネガティブな理由からホームレスをしているとは限らないが)、救われる対象である。もちろん緊急性はあるだろうが。
また、人の心を動かすには大きさが必要だろう。虐殺とホームレス、どちらの方が大きく感じるかは考えるまでもない。しかし、大きな出来事でなければ伝わらないとする。そうであれば、人の心を動かすために、行動が過激になることも十分考えられる。私たちは小さな声を、聞こえない声を聞くことは可能だろうか。
同情される人や、心を動かすことができる人だけが救われる対象ではない。生とは、同情や心を動かされることがなくても肯定されなくてはならない。私たちは情動の外側に行く必要もある。
・ニヒリズムではなく肯定を
問題提起はここまで。もちろんここで終わるわけにはいかない。ここで終わればただのニヒリズムだ。私が望むのはニヒリズムではない。私が望むのは、生と他者の肯定だ。そのことについて考えなくてはならない。先に述べた問題を考慮し、生と他者を肯定するにはどうすればいいのだろうか?
2
・言葉の力とはなにか
言葉の力とはなんだろう?「あの人が悲しんでいる」という言葉よりも、あの人が泣いている映像を見せた方が情動に訴えるだろう。「たくさんの人が殺された」という言葉よりも、たくさんの人が殺された映像を見せた方がはるかに情動に訴えるだろう。言葉は無力なのだろうか?
・私と作品
心を動かすことは支配に繋がると言った。ただ、情動的なことを禁止すればいいと言うのは違う。情動的なことを禁止することにも問題がある。
例えば芸術において、「情動的な作品を作るな」ということは表現の自由の規制に繋がる。そしてそのことにも、人をモノとして扱うことが潜んでいる。
だからこそ、作品を受け取る側が作品との関わり方を考ることも必要だろう。なぜ作品を作る側だけが責任を問われるのだろう。ほとんどの作品が受け取り方によって毒にも薬にもなるはずだ。人がリアルとフィクションの区別をする能力を完全に無くしたとしたとしよう。そのときはほぼ全ての作品が消滅するだろう。だからこそ受け取ることについても考える必要がある。
規制するべきだという声はよく聞くが、いかに作品と関わっていくかという声はあまり聞かないように思う。作品を規制することは、人間を諦めることでもある。人間は情動に翻弄されるがままで、作品に対して無力だ。だからそんなものは規制した方がいいと。それは人間に対する信頼がないということでもあるだろう。人間を信頼せず、人間を諦めるのであれば、人間をそういうモノとして扱うことになる。
確かに作品の影響はゼロではありえない。情動が動かされる。それは当然だ。規制した方がいい場合もあるだろう。しかし、人は情動に翻弄されるがままではない。作品、そして情動に飲み込まれないで、私と作品を分けることができる、作品、情動に飲み込まれることは「私と作品」ではない。それは私の消失であろう。飲み込まれることなく、いかに接するか。私と作品の間に何かを差し込む必要がある。そう、例えば言葉はどうだろうか。まさに”と”というのは私”と”作品の間に差し込まれた言葉だろう。
また、誰かと触れ合うとき、そこには距離的な意味を持った「ゼロ」という言葉がある。「ゼロ」とはお互いの間に差し込まれた言葉である。私は誰かと触れ合う。その間には「ゼロ」がある。だから私とあなたは一つにならないで、私とあなたでいられる。
・変化、外側
情動とは、外から来る刺激に対しての受動的な動きであり、そこに主体性はなく、能動性は少ない。
情動に動かされているとき、人はある意味徹底的に自己である。ただし、それは私が私というモノとしてあること、私のモノ化である。
モノというものを、受動的な立場にあるものとして考えてみよう。この受動的な立場から抜け出すにはどうしたらいいのだろう。私が私というモノから抜け出すということは、言い換えれば、私が私の外側に行くということだ。それには言葉という他者が必要なはずだ。
言葉と情動を切り分けることは可能だろうか?私は私の情動を言葉で表現する。嬉しい、悲しい、寂しい、楽しい。そして言葉は情動を動かすものでもあるだろう。
私は「淋しさ」という言葉がなかったら、そのように呼んでいる情動とどう向き合っていただろうか。私はある特定のとき、例えば一人ぼっちのときや、誰かとさよならをしたあとに感じる情動を、「淋しさ」と呼んでいる。それは私が考えたわけではない。世間ではそう呼ぶというのを、いつの間にか習得していた。
ここでは私の情動には「淋しさ」という意味と物語が与えられている。しかし、ここで別の意味を加えてみたらどうだろうか。例えば「音楽」、「淋しさ」の意味に「音楽」を加えてみる。淋しさは音楽のようであると。
そのとき、私にとって「淋しさ」の意味が変わる。それは、私の変化であり、私が私の外側に行くことである。私は「音楽」という言葉で外側に行く。さらに言えば、今ままで「淋しさ」と表現していたものを、「音楽」に変えてしまってもいいのかもしれない。言葉は隠喩なのだから。
そして、新しい意味と物語を獲得し、変化し、外側に行くことには、ネガティブなものをネガティブなままポジティブに変えて生きていく可能性があるのかもしれない。
やはり自分を変えるには、自分の外側に行くには、言葉が必要ではないか。
例えば、大きなショックがあったとしよう。自分の今ままでの全てが否定されてしまうような、大きなショックがあった。しばらくはショックという情動に打ちのめされるかもしれない。しかし、そのことから今ままでの生き方を変えるのには、新しい自分になるには、外側に行くのに必要なのは、やはり言葉ではないだろうか。
しかし一方で、言葉は私の情動と意味、物語、生き方を固定する。それだけではない。言葉とはある意味で徹底的に孤独である。「淋しさ」ということは、ある程度の共通認識はあるが、人それぞれで認識に差異があるだろう。もちろん他の言葉も同じだ。私にとっての「淋しさ」とは私だけのものである。情動と言葉は私として固定される。
だけど、私が変わるのに必要なのも、また言葉なのだ。言葉によって私の情動も変化する。言葉は私を固定するが、変化の可能性であり、外側への可能性でもある。
・尋問と説得
尋問においては生が否定される。否定されるのは生だけではない。相手の主体性も否定される。それは私が私というモノになるということ。
尋問によって負目から何かをなすということは、そこに私の変化はなく、私は私のネガティブな部分から行動を起こすだけである。
説得ということについて考える。説得は尋問と常に隣り合っている。ほんの少しバランスを崩せば、説得は安易に尋問となる。もしかしたら説得と尋問はグラデーションであって、明確に分けることはできないかもしなれい。
説得、もし尋問と明確に分けられないのであれば説得的とは、相手の主体性を大事にすること。尋問が負い目のようなものを相手に抱かせて、相手を変化させることなく、相手のネガティブな部分から行動を起こさせることであれば、説得とは、相手を主体的に変わっていくことを期待し続けて語ることである。主体的に変わっていくとはどういうことかは、先ほどの「淋しさ」の例や、「大きなショック」の例から考えて頂きたい。変化とは、外側に開かれることである。
尋問が相手の主体性を無視するとすれば、それは負い目への作用だろう。逆に説得が相手の主体性を重んじるのであれば、それは語りかけであり、良心への期待である。
尋問は相手をこう変化させたという目的があるのではないだろうか。作用であり、コントールである。説得のように主体性を大事にするのであれば、コントロールすることはできない。それには信頼と寛容も必要となる。
また、一方で捉え方の問題もあるだろう。受ける側がそれを尋問と捉えるか説得と捉えるか(もしかしたらこのテクストを尋問的と感じる人もいるかもしれない)。
そこには双方の不一致があるかもしれない。受け取り方について考えることも必要だろう。そして尋問でもなく説得でもなく、お互いが変化することの「対話」という可能性も。
いずれにせよ、尋問は他者の否定であると私は考える。他者というものが外側であると考えれば、外側の拒否でもあるだろう。では、他者を、外側を肯定するとはどういうことであり、どうしたらいいのだろうか?
・言葉の力
言葉の力について考えてみる。言葉はあらゆるものを隔てる。それはときに暴力的だろう。例えばあらゆる二項対立を作りもする。
言葉とは私にとって他者である。言葉という他者は私を作り、固定しもするが、私を変化し、私の外側を教えてくれる存在でもある。
外側を知ること。例えば一人の人間が生を奪われて死んだということについて、これを情動として感じるのであれば、映像の方がいいかもしれない。それも必要だろう。しかし、そのことを情動ではなく、情動という私ではなく、その外側を知ろうとすること、それをどういうことか考えるのであれば、想像力が必要だ。そしてその想像力は、言葉によってなされるはずだ
言葉は私の情動に影響する。私の情動に意味を与える。それは、生にとって必要不可欠なものだ。喜んだり、悲しんだり、淋しくなったり、少しだけ幸せになったり……
言葉は情動を抑圧し、飼い慣らそうとすることもある。しかし、情動に言葉を与えることは、情動とうまくやっていくこと、さらに言えば情動を私なりに楽しませてくれることでもないか。ときに言葉は、悲しんだまま踊らせてくれるのだ。
それは言葉だけではなく、芸術もそうであろう。
芸術も私の情動に新しい意味や物語をくれる。まさに私にとって「音楽」は淋しさをネガティブなままポジティブにしてくれる。私は「淋しさ」の中に光を見る。それはどんな光だろうか。
もちろん全ての言葉や芸術が外側に開けている訳ではない。尋問的であったり情動的な言葉や芸術もあるだろう。もちろんそれは受け取る人、受け取り方、そしてコンテクストによっても変わる。しかし、言葉や芸術は、変化や外側の可能性を与えてくれるのである。
・言葉は支配を逃れる
支配やコントロールに抗おうとするのであれば、信頼と寛容が大事となるだろう。そして言葉は支配やコントロールとは対立するもので、信頼と寛容に成り立つものであるはずだ。
先も述べたように、同じ言葉でも人それぞれに認識の差異がある。コンテクストによっても意味は変わる。言葉はいわば、誤解のもとである。多くの誤解が生まれる。正しく伝わることもないし、正しく表現されることもないだろう。言葉はコントロールができない。言葉は支配を逃れる。それこそが言葉である。だからこそ、新しい意味や物語、外側がある。
言葉を言葉として付き合うのであれば、信頼と寛容が必要になる。また、信頼は他者に対しての信頼だけであれば、支配に繋がってしまうかもしれない。だからこそ、寛容や自分自身に対する信頼も必要なはずだ(そして自分自身に対する信頼は自分の意思だけで持てるものではない。どうやって自分自身に信頼を持てるか。それは空間的に、時間的に、あるいはネットワーク的に考える必要があるだろう)。言葉は信頼と寛容のうえに成り立っている。自分の外側があることを許容することである。
・他者、外側の肯定
言葉によって外側があることは開かれた。では、外側を思考するとはどういうことだろう。
例えば他者理解ついて、自分が理解できないような他者を理解しようとすること。あの人はなんであんなことをするのか。それには何か理由があるのではないか。どういう環境にいて、今はどういう環境にいるのだろうか。もちろん、このように考えることも必要だ。しかし、それだけでは足りないとも思う。このように考えることは、あくまでも自分が理解できる範囲や許せる範囲を探しているだけになる。それは自分の内側である。そして、いくら言葉を用いて変化できるといっても限界はある。人は別人のようになることはできても、別人にはなれない。なんにでもなれるわけではない。
しかし、自分には絶対に理解できない、届かない、外側があるということは理解できるだろう。その外側の存在を受け入れること、存在することをただただ受け入れること。それだけなら可能ではないか。むしろ理解できる他者とは、もはや他者性が低いだろう。本当の意味での他者とは、自分から届かないぐらい隔たった他者、外側そのもののような存在だろう。
外側というのは、自分にとって否定的なものだろう。まさに自分から隔たった他者で考えれば分かりやすい。そのような他者は不快であったりする存在だろう。そんな他者を許容することができるのか。しかし他者と生きるということは強制させられていることである。だから共に生きていくことを考えなければいけない。つまり「共生」である。
他者と生きていくとについて「共生」と考える。他者といかにして生きていくか。
しかし「共生」というのはネガティヴな考え方ではないか。これから必要なのは、いかに他者と生きていくかというネガティブな思考ではなく、他者と関わることをポジティブに考える、そんな思考ではないだろうか。
他者といかに生きるかという問いは、他者が不要であるという結論になりかねない。つまり他者と生きることを強制されているならば、そもそも他者と出会う機会を極力減らすか、他者の他者性を減らせばいいということになる。これが極端化すれば、いつのまにか共生しなければならないということが忘れられ、滅ぼすということにも繋がりかねない。イスラエルが行なっていることはまさに、隣人でありながらも遠く隔たった他者、パレスチナという他者を滅ぼすことだろう。
他者は邪魔者かもしれない。やっかいかもしれない。不快かもしれない。不気味かもしれない。それでも他者といることをポジティブに考える。他者というネガティブな存在をネガティブなままポジティブに考える。そんな思考がこれからは必要だと私は考える。
・生の肯定
私は他者、外側だけではなく、生を肯定したい。
生はなぜ肯定されるのだろうか?それが正しいことだからだろうか?善いことだからだろうか?そうであれば、正しいから、善いことだから生は肯定されるのであろうか?
そうではないだろう。生はただ無条件に肯定されなくてはならい。生はただそれ自体で肯定されなくてはならない。
考えてみれば、正しくなければ肯定されないということ、そこに理由がなければ肯定されないというのも恐ろしいことだろう。
生を肯定するのに、正義も、同情も、愛も、血も涙も、理由も、根拠もいらない。生はただただ肯定されねばらない。もはや肯定という言葉は不要であるぐらいに、ただ在らねばならい。
正しさで判断することにも問題があるだろう。例えば親密な人との関係において、正しさを持ち出すことは、モラハラに繋がる可能性がある。正しさよりも、相手と私、関係の方が大切なのは言うまでもない。
生を否定する相手に対して、正しさを持ち出さずに訴えかけることは可能だろうか?イスラエルに対して、正しさを持ち出さずに虐殺をやめろということは可能だろうか?確かにこれは難しい。しかしイスラエルは、まさに正しさ、正当性を理由に虐殺をしている(あるいは虐殺ではないとしているか)。
根本的には変わらないにしても、緊急性が高いときに必要なのは、損得や利害といった政治的なことかもしれない(不買運動もこれに該当するだろう)。まずは正しさが必要なのかもしれない。しかし正しさとは、許容範囲、つまり内側の領域であるだろう。いずれは正しさを超える必要があるのではないだろうか。
しかし、根拠がなく行動することは不安だろう。そこに確証がなく、何かをすること。それは勇気のいることだろう。
それに行動を起こすためには何かが必要だろう。やはり生を肯定するには理由が必要なのだろうか。いや、行動を起こす為に必要なのは理由だけではない。より根本的なものがある。それは欲望である。
欲望から生を肯定することは、生をポジティブに肯定することである。ポジティブな生の肯定とは、あなたに、他者に生きてほしいと望むことだ。
私が生きてほしいから肯定するということは、利己的かもしれない。正義や正しさの方が利己から離れているかもしれない。
しかし、あなたには権利があると言われるよりも、あなたにここにいて欲しいと言われた方が私は嬉しく感じる。あなたはどうだろうか?
もちろん生は、私の望む望まないに関わらず肯定されねばならない。しかしそれだけではく、ポジティブな仕方で生を肯定することも必要だと考える。
裁く為に闘うのではない。糾弾するために叫ぶのではない。他者と共に生きたいから闘い、叫ぶ。私はあなたに生きることを望む。生を望む。正義や良心のためではなく、他者のために、生のために。
だからこそ、私とは隔たった他者といること、他者というネガティブな存在をネガティブなままポジティブに考えること、外側をポジティブに考える思考が必要だと、私は考える。
・あとがきに代えて~語ること
今回のイスラエルによる虐殺についての外側を考えてみる。
私は今までひっそりと不買運動や寄付はしていたが、発言はしていなかった。それは今回問題提起していたような問題を考えていたからであり、誰かに尋問的にならないかを恐れていたからだ。
もちろん、実際に行動を起こしたり、はっきりと虐殺をやめろということは必要だ。しかし、それとは別に語る場所も必要ではないかと思う。
今回の虐殺において、そのことを知った以上、ある意味で多くの人が虐殺という出来事に巻き込まれている。それは、虐殺に対する行動を強制させられているということである。
ある人はデモに行き、不買運動をし、SNSで発信をする。そしてある人は沈黙という行動をしている。沈黙も一つの行動となる。
もちろん私は沈黙していることを責めたいのではない。沈黙している人に対してイラつく人もいるかもしれない。しかし、その沈黙している人は、沈黙しているのかさせれているのか区別ができるだろうか。
それぞれが虐殺に関して何かを感じ、何かを思い、それぞれに過ごし、それぞれの行動をしている。あるいはさせらている。それぞれが虐殺という出来事を生きている。もちろん、私たちは実際に虐殺にあってはいない。しかし、この虐殺という出来事には巻き込まれている。
虐殺に関して何を感じているのか、私の生にどういった影を落としているのか、虐殺において自分がどういう気持ちでいるのか、どう関わっていくのか、それぞれの虐殺という出来事を語る場が必要ではないか。パレスチナ、イスラエルの問題だけではなく、私たちの生の中にある虐殺という出来事、そういったことを語ることも必要でないだろうか。つまりそれは、自分が考えている虐殺という出来事の外側、それぞれの個別的な、特異な虐殺という出来事に開かれることでもある。
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